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2004年 07月 09日
THE DELICIOUS BOY CHAPTER-5 Callanish 霧雨がバスの窓をゆっくりと、だが着実に濡らしている。 狭い島なので、交通手段は車だけになる。しかも、道幅が異様に狭いため、カーブなどではしばしば車を止めて対向車に道を譲らなければならない。しかも、道路と言っても、鋪装がしてあるというだけで、平坦な道だろうと崖っぷちだろうと側溝もなければガードレールもない。運転手はエジンバラからのベテランドライバーだったが、それでも、対向車が来るたび、乗客たちは身の縮む思いをした。 「見て、見て、ここの羊、顔が黒いよ。ブキミ〜」 タクミが窓の外を指差して、歓声を上げた。 「お前、いいよな。どこでもそうやって楽しめるからな」 ケンゴが窓に手袋をはめた指先で何か描きながら言い返した。 「心配してねえ?こんな天気じゃ、無事に日没前に着いても肝心の日没が撮れないかもしれないんだぜ」 「大丈夫だよ。きっと後で画像処理して天気みたいにできるってば」 「いかにもオタクらしい発想じゃねえか、タクミ」 薫は窓越しに空を見た。 インバネス周辺で見た黒い雲はここにはない。しかし、空全体が灰色をしていて、雨雲の有無を関係なしに霧雨が風とともに吹きつけてくる。 島の印象自体も何となく空に似ていた。 港のあるストーノウェイは小規模ながら街があり、人の往来もあったが、バスで数分進んだだけで建物はなくなり、曲がりくねった道と高原がどこまでも広がるようになった。対向車はたまに来るが、昼間からヘッドライトを点け、すれ違ってはさっさと行ってしまう。灰色と茶色、色は違ったが、空と地を取り替えても誰も気がつかないのではと思われるほど、目印もなく同じような景色が果てしなく続いていた。 さきほどの藤崎の説明によると、バスが天候不順のため思うようにスピードを上げられないので、今日はカラニッシュでの撮影を優先し、翌日、個人のシーンを撮ることにしたらしい。 「遺跡じゃ、管理人が俺たちが石を傷つけたりしないように監視するんだと。バカくさいじゃん、ただのデカい石なのにさ」 カツユキがスポーツドリンクをがぶ飲みしながら文句を言った。エジンバラで廃人同様で、インバネスでふらふらしていたカツユキだったが、フェリーでゆっくりできたのが効いたのか、もうほとんどいつもの調子に戻っている。 「もし、撮影中にうっかり倒しちゃったりしたらどうなるのかな」 「間違いなく罰金もんだな」 マサルは他の連中の会話に加わらず、何かノートに書きなぐっていた。 だぶん詩を書いているのだろう。 ニュームーンが連名で発表している曲の作詞はほとんどマサルが一手に引き受けている。例えばデビューCDからシングルカットされた「Strange feeling」や「Communication breakdown」などは、原曲はデビューより数年前にほぼ完成していたが、それに見合った歌詞はなかった。その甘美なメロディに合った詞をつけたのが後からメンバーに加わったマサルで、以後、新曲を作る時には楽器ののセッションとマサルの作詞がほぼ同時に進行するようになった。最近の例ではセカンドCDの「The Shipwreck song」や「A little drummer」などのようにマサルの詩が先にあり、そのイメージから逆に曲が出来たものもある。ニュームーンの歌詞は英語がほとんどであるため、マサルはかなり英語力があると思われているが、実はそうではなく、マサルがまず日本語で書いた詩を大まかに英語に直し、それに帰国子女のタクミがチェックを加え、最終的に意味や音的に整った歌詞に作り上げて行くのである。 (ここに「A little drummer」の日本語歌詞でも入れましょ) ニュームーンはもともと、高校が同じだった大石薫と、岩下健吾、それに楽器店で知り合った原田拓海の三人を中心に結成された。 高校バンドによくあるパターンだが、最初はバンド名などなく、特に野心があったわけでもなく、それぞれが各自の楽器を手に、ただ自然発生的に集まってはセッションを繰り返し、ひたすらテクニックの向上に努めているだけだった。しかし、ミュージシャンとして未熟なわりに各自の音楽性を巡ってのいさかいが多く、結局、薫と健吾、拓海以外のメンバーは常に流動的で、短いと数週間、長くても一年程度で変わってしまい、同じメンバーで二度同じ演奏を続けることはなかった。 もし、彼らと当時北九州の繁華街でライブハウスを経営していた高梨幸三との出会いがなかったら、おそらく三人がニュームーンを結成し、ここまでバンドをメジャーにすることはなかっただろう。高梨は自分のライブハウスのオーディションに来る雑多のバンドの中から彼ら三人を見いだし、後に公募で辻村賢と白木克之をバンドに加えて、ニュームーンが正式にEMNレコードと契約を結ぶまで彼らの面倒を見たのだった。 ニュームーンにとって大の恩人とも言える高梨だが、所属プロダクションの藤崎美波がマネージャーに就任すると同時にメンバーから遠ざかり、今では、公の席でメンバーに会うことも全くなくなってしまっている。業界筋ではフラッシュプロダクションの社長谷田典彦あるいは現マネージャーの藤崎との確執が理由と言われているが、真偽のほどは明らかにされていない。 「ほら、着いたわよ」 バスが止まると藤崎が後を振り向いて言った。 バスは道路の脇にある鋪装された駐車スペースに止まっていた。 「お、やっと文明のあるところに来たじゃん」 カツユキが皮肉を言った。 「今、ちょうど三時半だから、予定より三十分ほど遅れてるの。遺跡の前の資料館内のファンクションルームを控室として借りてあるから、降りたらすぐそこへ行って、衣装に着替えて」 藤崎はそう言いながらトランシーバーなど通信装置一式のついた重そうなベストをハーフコートの上から装着しはじめた。 「藤崎さん、すごい、それ。SWATみたい」 タクミがはやした。 「何言ってるのよ。屋外の、それも遺跡での撮影だから、下手に大きな機材は持ち込めないの。だから、私までこーんな重い物しょってぬかるみの中歩き回らなきゃならないのよ」 いつもブローして緩やかなウェーブを描いている髪もいつの間にかポニーテールにしてあって、ベースボールキャップの後ろからのぞいている。 「今のところ、日没までに天気が回復するかどうか分からないけど、機材も全部本番のつもりで準備を始めてるから、アンタたちも真剣にやってね」 「天気がよくならなかったら?」 革ジャンを羽織りながらケンゴが聞いた。 「明日もう一度、日没を狙ってセッティングをするわ。でも、明日は個人の撮りがあるから、できるだけ今日、このシーンだけでも終わらせたいの」 「オッケー。じゃあ、行くぜ」 ケンゴは立ち上がり、バスの降り口に向かった。 「知ってる?今日のコスチュームは特注なんだってさ」 ケンゴの後を追って歩きながらタクミが振り返ってささやいた。 「特注?何の?」 マサルは例のノートを脇に抱えている。 「昨日、早苗ちゃんにこっそり聞いたんだ。黒のレザーだってさ」 どうやらタクミのお気に入りの「コスプレ物」らしい。 マサルはやれやれ、という表情で肩をすくめ、薫はくすくす笑い出した。 撮影チームと音声チームが最終調整を行っているらしく、外ではさきほどから大音響で「ヒストリー・リターンズ」が何度も流されている。音楽が途中で止まると青いゴアテックスの上下を着たディレクターの林がラウドスピーカーで何か指示を出し、その度ごとにスタッフが草むらに足を取られながら歩き回っている。 ニュームーンのメンバーは衣装に着替え、メイクを済ませ、仮設控室で出番を待っていた。 「おい、タクミ。一生恨むからな」 ストーブで尻をあぶりながらケンゴがうなった。 カツユキももうすでに言えるだけの文句は言いつくし、今はサングラスをかけ放心したようにストーブの近くにイスを置いて座っている。 「ねえ、僕にもストーブあたらせてよ。寒いんだから」 「ダメだ」 ケンゴは足を上げ、近づいたタクミを蹴ろうとしたが、腰まで上がったところで慌てて足を下ろした。その足はふくらはぎまである厚手の白いハイソックスを履いているが、パンツは履いていない。今日の衣装は短めの黒のレザーのジャケットでタクミの情報どおりだったが、その下は何とウールのタータンチェックのキルトだったのだ。 「僕はね、林さんに何か曲のイメージに合ったコスチュームがいいな、とは言ったけど、スカート履きたいなんて言ってないからね」 「スカートじゃなくて、キルト」 マサルが訂正した。そのマサルも横に立つ薫も同じようにキルトとハイソックスを履いている。 「まったく、いくらスコットランド・ロケったって、何で日本人のオレたちがスコットランドの民族衣装着なきゃならねーんだ。まるで馬鹿丸出しじゃねーか。しかもこんな極寒の地で。‥‥もう、オレ、日本に帰りてーよ」 ケンゴの履いているキルトは緑と青がベースの格子柄で、早苗ちゃんの説明によるとMurray家に伝わるパターンということである。メンバーはそれぞれ着替える時に色の違うキルトと同色のストールを渡され、その家の名前も一緒に教えられた。マサルがMcDonald家に伝わるタータンチェックの中でも一番典型的な赤系で、カツユキは黄色地に緑の線が走るMcLeod、タクミは白がベースで緑や赤の線が入るMcRegar、薫は赤味がかったクリーム地に紫と黒の線が入るキルトを貰った。 『実はね、カオルくん。これ、マサルさん用の予定だったんだけど、カオルくんのほうがイメージだと思って、私、交換しといたの』 ビニール袋に入ったキルトを手渡す時、早苗はそう言って、いたずらっぽい目で薫を見上げて笑った。 『これね、一族のパターンじゃなくて、たった一人の人だけが身につけることを許されてた特別なキルトなのよ』 薫はキルトを手に取ってその色合いを見た。確かに日本で見たことのない色の取り合わせである。 『特別って、誰のパターン?』 その答えを言う時、早苗の目がひときわ輝いたように見えた。 『Prince Bonny Charles。スコットランドがイングランドと戦った時に先頭に立ったスコットランドの王子。ね、カオルくんにぴったりでしょ?』 薫は『ありがとう』と小さくつぶやくのがやっとだった。 「準備できたわよ」 重装備の藤崎が控室のドアを開けた。 「霧雨はまだ続いてるけど、日が射しはじめてるの。変な天気だけど、こっちじゃよくあることみたい。だから、ゴーサインが出たわ」 メンバーは重い腰を上げ、ぶつぶつ言いながら、藤崎について建物を出た。 (ここにHistory returnsの歌詞がちょっと入ります。歌詞入れ過ぎ?) 「いいですか。ここでは歌の後半のコーラスのシーンを撮ります。カメラは三台入りますが、各石の間隔があまりないことと、地面がぬかるんでいて滑りやすいので、撮りながらの移動はありません。全員が入る遠景と各アップを固定で撮るので、曲の同じパートが何回もかかりますが、頑張ってずっと歌って下さい」 アシスタントディレクターがメンバーとスタッフ全員に聞こえるようにラウドスピーカーで説明した。撮影スタッフは各カメラの近くに固まって陣取り、音声はカメラの後方でポータブルのスピーカーを調整することになっている。そして、カメラの枠に入らない程度離れた距離にメイクやスタイリストなどが各自の装備を手に待機している。 アップが多くてカメラに写ってしまうため、メンバーはイヤホーンなしで、持ち場に立つことになった。彼らの耳代わりは通信装備を背負った藤崎で、カメラに写らないよう一番大きい石の蔭に隠れ、林が出す細かい指示を的確にメンバーに伝える役目をする。 「女史、張り切ってるじゃん」 正面に立つマサルの向かって右に歩きながらカツユキが言った。 「ほんとはあの仕事、撮影スタッフの誰かがすることになってたんだって。だけど、藤崎さんが「あの子たちの表情や動きを一番良く知ってるのはアタシですっ!」と言って、仕事を取っちゃったんだってさ。らしいよね」 身を屈めてハイソックスのゆがみを直しながら、マサルが注釈をつけた。 「えー、タクミくん、寒いのは分かりますが、足踏みはやめてください。靴下のところに留めてあるナイフがずり落ちますから。ケンゴくん、腕組みせず、両手は自然にお願いします。あ、カオルくん、あの、風向き気をつけて。下、見えてます」 ラウドスピーカーにそう言われて、薫は慌ててめくれあがったキルトを押さえつけた。メンバーが大笑いしているのが聞こえる。 「ファンサービスだ、見せちゃえよ、カオル」 両手をメガホンにしてケンゴが叫んだ。 撮影は四時から始まり、きっかり一時間かかった。 その間「ヒストリー・リターンズ」のサビの部分はそれこそ何十回となく流され、最後にはメンバーもスタッフもうんざりするくらいだった。 薫は正面から左のひときわ細長く尖った石を背に歌った。 『カオル、あご上げ過ぎ』『ちょっと目をそらしてみて』『少し目をつぶってから開けて』『もうちょっと感情込めた表情して』 石の蔭にしゃがんだ藤崎が矢継ぎ早に出す指示どおりにしていたつもりだったが、しまいには寒さで顔の感覚がマヒしてしまい、一体どんな顔でカメラに向かっているのかも分からなくなった。空は晴れたのに、霧雨が相変わらずどこかから風とともに吹きつけて来るのも気になる。 撮影中、ほんの少し間が空くと、薫は目を宙にさまよわせ、いろいろなことを考えた。ほとんどが今の仕事や音楽についてだったが、残念なのはせっかく何か思いついても、手近にノートパソコンがないため、記録しておけないことだった。 日が完全に沈んだ頃、ようやくアシスタントディレクターのラウドスピーカーが撮影の終了を告げた。ディレクターの林がゴム長をにちゃにちゃいわせながら現場に上り、メンバー一人ひとりねぎらいの言葉をかけると、ニュームーンの仕事は一応、終わった。 「ちくしょー、やっと終わったぜ、バカヤロー!」 林が現場を離れるなり、ケンゴが暗くなった空に向かって拳を突き上げた。 「酒、持って来い、酒」 とカツユキ。 薫は仲間を追って坂を下りかけたが、藤崎が例の位置にしゃがみこんだままなのに気がついて歩み寄った。 「美波さん」 藤崎は顔を上げた。しかし、その顔は青ざめていて、身動きもままならないようである。 「大丈夫?」 「あんまり。何だか腰が変なの。すっと立てなくて」 薫は周囲を見回した。 メンバーはとっくに現場を離れ、仮設控室に向かっている。 かなり離れたところに撮影スタッフや音声スタッフがいるが、彼らは機材の解体や後始末に忙しく、暗がりの中、現場に取り残された二人には気づいていない。 薫は藤崎の傍らに膝をついた。 「腰、伸ばせる?」 藤崎は腰に手をあてがいながら立ち上がろうとしたが、小さくうめき声をあげてまた元の姿勢に戻ってしまった。 「ダメ。伸ばそうとすると痛くて」 薫は手を広げると厚い革のコートの上から藤崎の腰に触れた。 「たぶん寒いところでずっと同じ姿勢をしてたから、腰がおかしくなっちゃったんじゃないかな」 普段なら何か言い返すところだが、よほど腰が痛むのか、藤崎はうつむいてじっとしている。 藤崎の腰から手を離すと、薫はしゃがんだまま、背を向けた。 「じゃあ、乗って」 両手の先を曲げて、藤崎に見せる。 「控室までおんぶしてあげる」 「ダメよ、カオル。私‥重いのよ」 藤崎は首を振った。 「大丈夫だから、乗って」 薫の手が藤崎の手首を握り、軽く前に引っ張った。はずみで藤崎は薫の背に身を預ける形になった。 「よいしょっ」 薫は立ち上がり、その背で藤崎は小さく悲鳴を上げた。 「大丈夫。ゆっくり歩くから、しっかりつかまってて」 薫は両手を藤崎の尻にあて、ぐっと上に押し上げた。 「腕を僕の首にまわして。そうすると落っこちないから」 藤崎は素直に言われたとおりにした。 両足を開いてバランスを整えると、薫は慎重に濡れた地面を踏みしめながら歩き出した。 「気をつけてね。もし、アンタが転んでケガでもしたら、私、社長に殺されるわ」 「平気だよ。それに、ケガしたら、またいいビデオが撮れるかもしれない」 藤崎は横を向き、薫の背に顔を押し当てた。着ている黒革のジャケットは湿気を含んで冷たく濡れそぼっていたが、気にならなかった。 「‥カオルって、こんな高さで物を見てるのね」 「百八十七あるからね。ところで美波さんは何センチあるの?」 「百六十三」 「ちょうどいい高さじゃない?ハイヒール履いても男の人より高くならないし」 「そうね。でも、気がついてた?私、みんな一緒にレセプションに招待されたときはいつも低めのヒールを履いて、髪も小さくまとめて、他の三人より高く見えないようにしてるのよ」 「うん、分かってた。美波さんはいつもさりげなく僕たちを立ててくれてるって」 薫が歩くたびに背中もわずかに揺れた。 「美波さん、もう一つ聞いていい?」 背中におぶわれて聞く薫の声は、いつもより少し距離があるように藤崎は思った。 「ええ。何?」 「明日の個人のシーン撮りだけど。僕とカツユキのパートを交換するって本当?」 リラックスしていた藤崎の体が急に堅くこわばった。 「誰から聞いたの、それ」 「うわさ」 薫はぽつんと言うと、しばらく黙って歩き続けた。もう坂は終わり、資料館までの平坦な草原が広がっている。その先まで行けばコンクリートの歩道なので、歩くのは楽になるだろう。 このまま道がずっと続いて欲しい。藤崎は心底願った。 そうすれば、カオルに言い訳しなくて済むのに。 「美波さん、聞いて」 再び薫の声がした。 「美波さんがこのことについて何も言いたくないなら、それでいい。でも、もしこれが本当なら、僕から言っておきたいことがある」 街灯に近づくと薫の髪が光を反射した。 藤崎の顔のすぐ近くで一群れの白い髪が波打っているのが見えた。 「僕はパートの交換には納得できない。僕が実際に弾いたパートじゃないのに、弾くふりをするなんて。他のことなら、演技でもスタントでも何だってする。だけど、カツユキのパートを盗ることだけは嫌だ」 薫は大股で草原を突っ切り、歩道に足を踏み入れた。 「明日はちゃんと言われた時間に起きて、撮影の準備に行く。でも、もしパートを交換しろと言われたら」 白い髪が美波の頬に触れた。 「僕は撮影をボイコットするからね」 仮設控室に戻った二人はさっさと衣装を脱いで寛いでいたメンバーとそれを取り巻くスタッフから思いっきりひやかされた。 「何かあったのかと思って心配してたんだぜ」 マサルが言葉と全く正反対のニヤついた顔で言った。 「お姫さまの靴がこれ以上汚れないようにお運び申し上げてたとはな」 「違うよ。美波さんが腰を痛めて歩けなかったからおんぶしたんだよ」 薫はゆっくりと体を落とし、藤崎をイスの上に下ろした。 「美波さん。少しストーブで腰を暖めとくといいよ」 その声はいつもと同じ薫で、さきほどの怒りを含んだ激しさはなかった。 「ああっ、カオルく〜んっ!!」 脱ぎ散らかされた他のメンバーの衣装を片づけていた早苗が突然すっとんきょうな声を上げた。 「キルト、泥だらけ〜!!」 見るとクリーム地のキルトは正面から横にかけておびただしい泥で黒く染まっていた。おそらく美波の履いているブーツからついたのだろう。 「ゴメン、早苗ちゃん」 薫は頭を下げた。 「これ、クリーニングで落ちるかな?」 早苗は薫に駆け寄ると、膝立ちでキルトの生地を調べた。 「‥クリーニングなら大丈夫だと思うけど。この島、明日お店全部閉まっちゃうでしょ?だから洗えないわ」 「ええっ?」 「じゃあ、僕の衣装もダメ?」 後ろから髪を蒸しタオルで拭きながらタクミが声をかけた。 「カオルは見なかっただろうけど、タクミさー、ここに来る途中で思いっきりコケて全身泥だらけになったんだぜ」 「うるさいな!」 タクミはタオルをカツユキに投げつけた。 「タクミくんは大丈夫。キルトの替えがあるから」 早苗は大きくため息をつくと立ち上がった。 「だけどカオルくんのは珍しい柄だから、これ一枚しか手に入らなかったの。‥どうしよう」 藤崎は顔を上げた。 マサルもカツユキもタクミも、純ちゃんや早苗すら藤崎と目を合わせようとしなかった。 藤崎は絶望的な表情で、キルト姿で立ちつくす薫の目を追った。 「私が自分で歩けばよかったのよ」 薫が藤崎のほうを見た。 「私のせいだわ」 目は藤崎の目をまっすぐ捉えた。 無表情でありながら、薫の目だけは藤崎の目の奥底を見、中のなかまで藤崎という人間を覗き込もうとしているように見えた。 「美波さんはそんなこと言わなくていい。おぶったのは僕だし、あの状況ではとても美波さんを置いて行くわけにはいかなかった。それに」 不意に薫の顔にさざ波のような笑顔がよぎった。 「衣装はどうだっていいんじゃないの?キルトのプロモーション撮ってるんじゃないんだし」 あっけにとられたマサルに近づくと薫はその肩に腕をかけた。 「全体のシーンはもう撮っちゃってて、明日は個人のシーンなんだから、別に同じのを着なきゃならないってことはないよね?マサルはどう思う?」 マサルは親指の爪を噛んだ。 「‥そうだな‥例えば今日のキルトが正装だとすれば、明日のシーンは正装前と考えられるかな」 「変身前・変身後とも言える」とタクミ。 「お前、なんとか戦隊と俺たちを一緒にするんじゃねーの」とカツユキ。 「ってーことは、明日、この格好をしなくていいってことか?」 ケンゴが大きくガッツポーズした。 「よっしゃあ、それ乗った。いいよ、カオル、それサイコー!オレ、大賛成!署名でも嘆願でも何でもするから、絶対にそうしてくれ」 「じゃあ、それで決まりだね。林さんには僕と美波さんで言っとくから、みんな自分で明日の衣装を選んどいて」 メンバーの歓声と衣装スタッフの悲鳴が部屋に満ちた。 # by kaoru_oishi | 2004-07-09 16:03 | 第1部第5章(1) | Trackback | Comments(1) 2004年 07月 09日
林は思ったより機嫌よく薫と藤崎の提案を受け入れてくれた。 「ボクはさ、もともと被写体の一番最高の状態を引き出すのが自分の仕事じゃないかと思ってるわけ。だから、カオルくんたちがハッピーなら、ボクもそれで構わないの」 太った体に短い手足、中途半端な長髪に無精髭という映像ディレクター職以外はとても社会生活はできそうにない外観の林はストーノウェイのホテルの部屋でタバコを吹かしながら自分の映像論を話し、二人の同感を求めた。 「もし、これが他のもっとあか抜けないバンドだったら、ボクははるばるルイス島まで来てビデオ撮りしようなんて思わなかったな。フォトジェニックなキミたちだから、きっと惚れぼれするような出来映えになると信じてボクもやってるんだ」 「では、明日は個々の選んだ衣装で各シーンを撮って、で、僕はベースのパートをやったんで構わないんですね」 薫はイスに座った林の前で直立不動のポーズで尋ねた。藤崎は腰がまだ完全でないので、そばのテーブルに両手をついて立っている。 「うん。惚れぼれするような出来映えになれば、ボクはハッピーなの。だけど、カオルくんには明日、特別に一つ課題をあげてもいいかな。キミがベースを弾く時に、リードギターがよくやってるようなエクスタティックな表情を見せて欲しいんだ。そうしたら、絶対にスゴい映像になるからさ」 薫はしばらく暗い窓の外を見た。夜になってまた霧雨がひどくなっている。 「エクスタティックな表情‥ですか」 「うん。エジンバラで「モーニング・グローリー」撮った時、本番前にギター弾いてたじゃない。あんな感じ。ボクは後でハンディカムの映像見たんだけど、ゾクゾクっと鳥肌立つぐらい、キミがいい顔してたんだ」 伸ばし放題の髪に髭面という「投げた」風貌のわりに林の目は少年のようで、話をする間じゅうきらきら光っていた。 「できるの、カオル?」 林の部屋を出るなり、藤崎は薫のセーターを引っ張った。 「さあ。でも、やるしかない」 薫は腕組みをした。そして藤崎を見下ろすと、ちょっと慌てたように目をそらした。 「さてと。じゃあ、今晩は「エクスタティックな表情」を検索して、研究してみることにする」 それを聞いて藤崎は気の毒そうな顔をした。 「あのね、カオル。このホテルはルイスで一番高いところなんだけど、各部屋に電話線ないの。だから、今晩はインターネットできないわ」 「えっ、インターネット使えないの?メールもダメ?」 「ええ。残念ながら」 薫は肩を落とし、意気消沈したようすで自分の部屋に入って行った。 From: Moon Sailor Date: 2004.2.29 22:35:31 Stornoway/UK To: mai-chan@yahoo.com Subject: ルイス島に着いた まいちゃん、元気? 僕は今日、ルイス島に来た。 ルイス島はスコットランドの北にあって、フェリーで行った。 あ、そうそう。 ルイス島に渡る前に、ネス湖にも行ったよ! ネッシーが出て来ないかなと思ったけど、何も見えなかった。 ちょっと残念だった。 ルイス島もとても寒い。 今日は特に霧雨が降ってたから着ていた服もぬれちゃって困った。 前に、そこに遺跡があるって書いたよね? 今日、そこにも行って来た。 大きな石が地面にたくさん立っていて、日時計みたいな使われ方をしてたんだって。 デジタルカメラでその石の写真を撮りたかったけど、着いたのが夕方だったから、すぐに暗くなっちゃってダメだった。 明日もルイスにいるから、もしかしたら、景色とかの写真なら撮れるかもしれない。 じゃあ、体に気をつけて ムーンセーラーより PS 今、泊まっているホテルはインターネットが使えないから、たぶんこのメールはあさって送ると思う。 おそくなるけど、ゴメンね。 翌日、ルイス島は珍しく快晴に恵まれた。 「はい、アクション!」 林の声がラウドスピーカーから響く。 吐く息も凍りそうなほどの寒さの中、日の出前から撮影は始まっている。 「カオル、ゆっくり崖のギリギリのところまで歩いて。そうそう。そこで、ストップ!空を見て、両手を差し出す。違う、そういう感じじゃない、カットカット!」 途端に薫の動きが止まり、逆にスタッフは慌ただしく動き出した。カットの度に音声スタッフがCDを元のところまで戻し、メイク係は風にあおられてもつれた薫の髪を直した。 「力、入れてますね、林さんも」 小さいポケットサイズのノートパッドを手にした吉野が藤崎に言った。 「私もまさか朝一の撮影に林さんがじきじきお出ましになるとは思わなかったわ」 藤崎も同意した。 ルイス島ロケ二日目は個人シーンのビデオ撮りなので、林は撮影スタッフを二つに分け、見晴しのよい崖やビーチ、昔の砦の跡など、絵柄が理想的で、かつあまり時代感覚のない場所を選び、そこでビデオ撮りをすることにした。Aチームがカオル、カツユキ、マサルの三人を、Bチームがケンゴ、タクミの二人を手分けして撮ることになったため、Aチームの一番手に指名された薫はまだ辺りが真っ暗なうちから撮影現場に連れて来られた。 「手の出し方は、あんまり堂々とじゃなく、あんまり弱々しくでもなく、つい、自然に手が空に伸びましたって感じでやって」 林はラウドスピーカーをほっぽると、薫のところまで短い足をフル回転させて走り、演技指導をした。 「林さんもすごいけど、カオルさんも頑張ってますね」 「ほんと。朝四時起床だから、きっとほとんど寝てないと思うわ」 そう言う藤崎だが、実は自分も同じぐらいしか寝ていないのだ。昨日の件があったので、今日は休養を取るように林にもメンバーにも言われていたのだが、どうしてもカオルの撮影が気になって来てしまった。腰を悪化させないように暖かい格好をして、なるべく長時間座った状態でいないようにしているが、また痛み出さないという保証はない。 「それにしても、明日でレポートの仕事が終わるのが残念でざんねんで」 遠くで演技を続ける薫を眺めながら吉野がつぶやいた。 「えっと、明日発つんでしたよね?」 「ええ。マンチェスターのミュージックフェスティバルのレポートの仕事が直後にあるので。ほんと、残念です。スコットランド・ロケ、最後までご一緒したかった」 吉野は両手を握りしめながら熱意を込めて言った。 洋上のインタビューがかなり辛辣だったと後からメンバーの何人かに聞いていたので、藤崎は今の言葉を聞くまで、吉野がニュームーンというバンドに好意を持っていないのだろうと思っていた。メンバーもインタビュー以来、何となく吉野を敬遠しており、特にタクミは肥満児時代のことを詳しく聞かれてプライドを著しく傷つけられたのか「もう絶対あの人のインタビューは受けない」と断言していたくらいだ。 「ところで吉野さんはインタビューをしていて、メンバーの誰に一番興味を持ちました?」 吉野の目は薫を追い続けている。 「やっぱりカオル、ですか?」 彼方を見続けながら、吉野は目を細めた。 「意外にもカオルさんでした」 藤崎はそう言う吉野の横顔をしげしげと見た。 見たところでは三十代後半といったところだが、事前にエンターテイメント・プレスから送られて来た彼女のプロフィールにあった経歴を考えると四十は越えていてもおかしくない。 「私、下準備としてオフィシャル・プロフィールやプレスキットに目を通しましたが、正直言うとカオルさんにはあまり魅力を感じなかったんです」 「そうですか?」 藤崎はやや強い調子で聞き返した。カオルのプロフィールの草稿を作ったのは前マネージャーの高梨だが、キットに使われている写真のカットは藤崎が自分で選び、カオルにも手ずからどう振る舞えば一番魅力的に見えるか教えて来たので、「魅力が感じられない」というのは心外だった。 「確かに、インタビューですぐ間近にでると「うわあ、何てステキ!」と思いましたが、でも、結局のところ、それだけなんですよね。カオルくんのファンならともかく、私はライターなので、ルックスとか品行方正なマナーだけでは満足できないんです」 遠くでは薫が再び演技を初めている。さきほどの動きは済んだようで、今はギターを片手に崖の手前をゆっくりと歩いている。 「藤崎さんは「五人目のビートルズ」はご存じですか?」 藤崎は吉野の不意の質問に当惑した。 「えっと、確かスチュアート・サトクリフでしたよね。結構早死にしたはず」 「そうです。そのサトクリフですが、ベース奏者としてビートルズに加入したんですけど、その当時は全然弾けなかったんだそうです」 「本当に?じゃあ、どうして入ったんでしょうね」 「ルックスがよかったから引っ張られたんです。藤崎さんはあまりご存じないかもしれませんが、バンドでベースが一番美形というのはよくあることで、ベースはリードに比べて動きが少ないからそれを顔でカバーするんだ、なんて言っている人もいるくらいなんですよ」 そう言いながら、吉野は早口でベースが美形だと評判のバンド名とそのベース奏者を一ダースほど上げてみせた。藤崎はその半分も知らなかったが。 「だから、大石薫さんもそういったベーシストの一人なんだろう、という思い込みが私の中にあったと思います」 ようやく演技の部分が終わったのか、崖の手前に設置されたスピーカーから風に乗っておなじみの「ヒストリー・リターンズ」のメロディが流れて来た。 「じゃあ、ルックスやマナーの良さでないとしたら、吉野さんはカオルのどこに惹かれたんですか?」 林が音楽を止めてラウドスピーカーで何か言っている。 「ナーバスなところでしょうね」 薫の首に巻いている赤いマフラーが強い風を受け、蛇のようにのたうっている。 「ナーバス?」 吉野はうなずいた。 「そうです。外界と自分を意識しながら、自分の存在場所を探しているような」 「自分の存在場所を探している?」 藤崎は無意識に吉野の言葉を反芻した。 「それって、記憶喪失のせいで、ですか?吉野さん」 吉野はしばらく考え込んだ。風が彼女の後れ毛を吹き流し、吉野はそれを神経質に耳の後に撫でつけている。やがて、口を開いた。 「私はそうだろうと思ってます。記憶がないので、自分の存在に自信が持てない。だから、他人が望むように振る舞うことで自分の存在価値を見つけようとしているような。私はたった二、三日ご一緒しただけですが、カオルさんの言動を見て、そんな印象を受けました。そして、実際にインタビューしてからはそう確信してます」 薫がいよいよ音楽に合わせてベースのパートを弾きはじめた。 遠くて見えないが、藤崎は目を凝らし、薫を注視した。 もし、吉野が言うように薫が「他人が望むように振る舞う」のなら、ディレクターの林の課題に応えて、今、一番「エクスタティック」な表情を見せようとしているはずである。 「でも、今、私が言ったことをネガティブに取らないで下さいね、藤崎さん。私は逆にそんなカオルさんの繊細さに惹かれたんですから」 音楽はまだ止まらずに続いている。撮影がうまく行っているからに違いない。 藤崎はこうして吉野と話している間に何度か喉の辺りまでせり上がって来た言葉を今、口にした。 「それで、吉野さんはカオルの記憶喪失についてロケ・レポートの中に書くつもりなんですか?」 吉野はようやく藤崎を振り返ると、ちょっと苦笑した。 「私も今、悩んでいるところなんです。カオルさんの人間性を書くなら、記憶喪失はとても重要な要素ですし、他の美形ベーシストと一線を画すポイントになるでしょう。でも、それに焦点を当てたら、今度は世間はカオルさんの「記憶喪失」という部分だけに注目して、音楽性とか肝心なところを見なくなってしまうのではないかって」 薫がゆっくりと崖を離れ、こちらに歩いてくるのが見えた。林がカメラの位置から走り出し、薫に抱きついた。身長差があるので、遠目には木にぶつかり稽古をしている相撲取りのようにも見える。 「よかった!最高だよ、カオルっ!惚れぼれする出来映えだよ、うんっ!」 薫も何事か言っているようだが、林の大声にかき消されて、藤崎たちのところまでは届かない。 「あ、そうそう。藤崎さん、これもご存じですか」 吉野の声で、藤崎は我に返った。 「今、思い出したんですけど、記憶喪失のミュージシャンは他にもいます。八十年代に「St Elmo's Fire」というヒットを出したジョン・パーがそうです。記憶がなくても音楽性さえ確かなら、成功するっていういい例でしょう」 そう言いながら、吉野はノートパッドに名前と曲名をアルファベットで書き、ページを破って藤崎に手渡した。 「カオルさんに教えてあげてください。もうずいぶん昔のことだけど、きっと記録はどこかに残ってるはずです」 「きっと喜んでネット検索すると思うわ、カオルは」 藤崎は手をかざし、まっすぐ射してくる朝の光をよけた。 逆光で黒いシルエットとなった薫が歩いてくる。 「じゃあ、私、Bチームのケンゴさんの撮影を見に行きますから、これで」 吉野が慌てて身支度を始めた。 「そんなに急がなくても。カオルとちょっと話してらしたら?」 吉野は大きく首を振った。 「いえ、いいです。私、もうじゅうぶんカオルさんから話をうかがってますし‥あまり親しくなると、かえって書きづらくなったりしますしね」 そう言うなり、小走りで坂を降りて行った。 藤崎はその姿が道路脇に停めてある小型のレンタカーの中に消えるまで見送った。 「美波さん、おはよう」 背中に声がかかった。 「腰は大丈夫?」 藤崎は振り返って、薫を見た。 「ええ。おかげさまで、今は痛くないわ」 今朝の薫は体の線がはっきり出るくらい肌に密着したダークグリーンの革の上下を着、膝まである頑丈そうな黒のワークブーツを履いている。 「昨日、キルト汚しちゃったから、おわびに早苗ちゃんの選んだ衣装を着ることにしたんだ。だから、これは彼女のシュミ」 赤いマフラーを無造作に首に巻きつけると、ポーズを取ってみせる。 「林さんは大満足みたいね」 「うん。演技のところでは何度か撮り直しになったけど、ベースのところは一発で決まった」 「例の「エクスタティック」でしょ?」 「そう」 薫はソフトケースに入れて背中にしょっているギターのネックを革手袋をはめた手で撫でた。 「知りたいわ。一体、何を考えて「エクスタティック」な表情をしていたの?」 風が吹き、藤崎と薫の髪を乱した。 「知りたい?」 「ええ」 薫は顔の前に来た白髪をうるさそうに払いのけた。 「事故のあと、初めてこのギターを弾いた時のこと。初めて自分で弾いた音がちゃんとした音楽に聞こえた時だよ」 薫の口元に微かな笑みが浮かんでいた。グラビア用でもインタビュー用でもない、藤崎の知らない穏やかな笑みだった。 # by kaoru_oishi | 2004-07-09 16:04 | 第1部第5章(2) | Trackback | Comments(2) < 前のページ次のページ >
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