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2004年 07月 09日
THE DELICIOUS BOY CHAPTER-1 Morning glory 風が、痛い。 耳が切り取られても分からないくらい冷えきっている。 膝をついた石畳から冷気が革のパンツを通してはいあがってくる。 薫は長く伸ばしたシールドをアンプにつなごうとしていた。 持参したギターに現地調達の旧式のアンプだが、もともと輸入物のギターだから、電圧は違っても問題なく使えそうである。 作業自体はシールドをプラグに差し込み、チューニングするだけなのだが、寒さで指がかじかんでしまって、数分でできるはずの簡単なことがなかなか思うようにいかない。 取り落としたシールドのジャックが石畳に当たり、カツンと小さい音を立てた。 薫は唇をかんだ。 わずかな銀色の反射を頼りに、暗がりの中でジャックを探さなければならない。 「どうせリップ・シンクなんだから、音出ししなくてもいいんじゃないか」 後ろからカツユキが声をかけてきた。発泡スチロールのカップに入ったコーヒーを両手で包むように持って暖を取っている。 「うん。本番では音出し禁止でしょ。でも、その前にちょっと試してみたいんだ。ここで弾いたらどんな風に音が出るのかなって」 「アホクサ。こんなとこじゃ、そこらじゅうの壁に反響してロクな音になんないぜ」 「でもいいよ」 何とかアンプをセットすると、薫は立ち上がった。 暗さにバランスを失い、軽くよろめく。 目を凝らすと、暗がりの中に石造りの建物が、さらに濃い影となって自分を取り囲むように立ち並んでいるのが分かる。 薫はストラップを調節し、ネックを持った。 指が思うように動かない。 手をこすりあわせて、息を吐きかける。 息は煙のように真っ白になって視界をさえぎった。 落とさないようにピックをいつもより強めに握り、薫はワイヤーを軽くはじいてみた。 キューンと思ったより小さい音が出た。 少し音量を上げ、チューニングをする。寒さにかじかんだ指に思いっきり力を込めてワイヤーを巻き上げた。 それを二、三度繰り返すと、納得できる高さになった。 「よし」 薫は足を開いて心持ち腰を落とし、ピックをワイヤーに強く叩きつけた。 大音響、とまではいかないが、腹にずしりと来る低音が出た。 それを、左手を滑らせて一瞬で耳に抜けるような高音まで高める。 背中がゾクゾクした。 寒さではない。音がそうさせるのだ。 そのまま、思いつきでAC/DCのThunderstruckのイントロを弾きだした。 最初は何の曲か分からないほどゆっくり弾いていたが、指先に血が通ってくるにつれて早くなり、だんだんオリジナルに近くなっていく。 AC/DCのギタリストはこの曲の演奏中とにかく派手に動き回るが、薫は少し内股に開いた足で一点に立ち、上半身だけをゆっくりうねらせていた。 ピックを握る指とコードを押さえる指が互いに競い合うように速度を増す。 「ぁぁ」 思わず小さく声が出た。 風が髪を前へ後ろへと吹き流すが、薫は目を閉じたまま、音に集中していた。 (いいよ。すごく、いい) 自然と笑みがこぼれた。 時差ボケと睡眠不足、過密スケジュールで体力は限界に達していたが、この瞬間だけすっと精神が澄み渡り、薫は全てを忘れて自分が奏でる音楽に聴き入っていた。 少し音を出すつもりだったが、気がつくと全曲弾いてしまい、体は軽くジョギングをした後のように火照っていた。 ギターの音が抜け去ったところに閃光と耳障りなシャッターの音が戻って来た。 「カオルくん、今の良かったよ」 「これもさー、モノトーンにしてプロモの中で使っちゃうってのはどう?」 ハンディカムも薫に向けられていた。 「本番でも同じようにいくと最高なんだがな」 「ちょっと、こっち目線で頼むよ、カオルくん」 どこまでも近づいてくるカメラと絶え間ないフラッシュに思わず薫は両手を広げ、顔を覆った。 熱を帯びた体が、また急速に凍えていくのが分かる。 そこへトレーラーの近くで他のスタッフと談笑していたマサルがカメラを無視してまっすぐ歩いて来た。近づいてくると小さい声でThunderstruckを口ずさんでいたのが分かった。 「マジで歌っちまおーかな、オレも。どーも、リップ・シンクって苦手なんだよなー」 そう言うなり、片手をすっと伸ばして長いコートの上から薫の尻をひっぱたいた。 「どアップでバシャバシャ撮られてムカツクのは分かるけど、ちっとはスタッフにもサービスしとけよ。みんなこの寒い中頑張ってるんだからさ。ビデオ撮りが早く済めば、それだけ早くホテルに戻れんだし。そういうことで、ヨロシク頼むよ」 親指を立て、クキッと口の中で音を立てて笑うとマサルは大股でスタッフの方へ戻っていった。 「やっぱり音があまり良くなかったな」 コーヒーを飲み終えたカツユキがすれ違いざまに言った。 「いいんだよ。少し体があったまったから」 薫はそう返すとアンプをオフにした。 ライトやカメラの準備が出来たのだろうか、スタンバイしながら休憩していたスタッフが急にあわただしく動き出した。 「あ、カオルくん。ちょっと粉足しとくね」 へア&メイク担当の女性がパフを持って駆け寄り、薫をぐっと前屈みにして素早く顔にファンデーションをはたいた。この風なのに、ごていねいにも髪までブラシをかける。 「はい、オッケー。きれいきれい」 肩をぽんぽんと叩くと、またセットの外へ走っていく。 本人から直接聞いたわけではないので本当のところは分からないが、うわさによると彼女はケンゴとつきあっているらしい。髪が短く、いつもシングレット一枚にジョギングパンツでドラムを叩いているケンゴと最新のヘアスタイルとメイクの歩く見本のような彼女の取り合わせはミスマッチのようでもあり、ほほえましくもあった。 「純ちゃんは僕の顔チェックしてくれなかったんだけど、ちゃんとなってる?」 ぎりぎりまでトレーラーの中で暖まっていたタクミがぱたぱたとやって来た。 「うん、崩れてないよ」 「服は?みんながレザーとか黒目の服ばっかだからアクセントつけようと思ってツイードにしてみたんだけど、何だか浮いてない?」 「だいじょうぶ。タクミらしい選択じゃないかな」 薫にそう言われ、ニコッとして持ち場に着く。 撮影用の音の出ないセットではあったが、タクミの周囲だけは最新鋭の機材が揃っており、特にキーボードなどは五台もあって、タクミを左右正面からがっちり固めている。「ホコ天で弾いてる感じで」というディレクターのリクエストで、カツユキやカオルは今どきワイヤレスが当たり前なところを、敢えてシールドをアンプにつないだ「路上風」にギターを持たされているのだが、タクミだけは「僕は路上で弾いてきてないんだから」と頑として言うことを聞かず、コンサートで使うのと同じフルセットを持ち込んでいた。 「今日はサックスの生演がないから、僕がそこのところキーボードで弾いてるように見せればいいんだよね‥‥あ、つめたっ」 独り言をつぶやきながらタクミは電源の入ってないキーボードに指を滑らせた。 背後の壁に体を立てかけて、黙々と斜め腕立て伏せを続けていたケンゴがドラムに向かって座り、マサルがマイクの前に立つとバンドが揃った。 ライトが一斉につき、まだ空は完全に明るくなっていないのに、バンドの立つあたりだけが真昼のように輝いた。 「はい、じゃあニュームーンの「モーニング・グローリー」本番入りまーす。音声のキューが出たら始めて下さーい」 アシスタントディレクターの女性がラウドスピーカーで叫んだ。 「じゃ、行くぜ」 マサルが振り向いて言った。 「口パク、ズレるなよ」 ケンゴがすかさず叫ぶ。 「そっちこそ、スティック落とすな」 フンッと鼻を鳴らすと、ケンゴはスティックを持ち上げた。 四方に配置してあるカメラのライトがスタンバイの赤から緑に変わる。 そしてヘッドホンをしてモニターの横に立っている音声スタッフの手が上がった。 「ワン・トゥー・スリー・フォー」 薫は目を閉じた。 そして開いた。 「はーい、今度はスチール撮り行きまーす」 そう言われて五人は落書きだらけのレンガ塀の前に立った。 今日のビデオ撮りはひととおり終わったので、撮影許可の時間内にポスター用の写真も撮ることになったのだ。 すっかり夜が明けて日が射して来ているのだが、空気が暖まってくる気配はまるでない。 「しっかしよぉー、ここまで来てどうして公衆便所の前で写真撮ったりするワケ?」 ケンゴがカメラマンに指示されて革ジャンのジッパーを下げながらぶつくさ言った。いつも薄着だが、今朝だけは下にトレーナーを着込んでいる。 「アップなんだし、どこだか分かんないんじゃない」 タクミは首に黒いウールのストールをぐるぐる巻いていたが、首が短く見えると思ったのか、今は三角に折ってグレーのツイードのスーツの肩からかけている。 「分かるって。お前のちょうど上に「ジェントルマン」って書いてあるべさ」 タクミは後をふりかえった。 「え?あちゃー。ね、カオル、場所変わってよ。カオルがここならちょうどサインが隠れるから」 ぼんやり街の景色を見ていた薫ははっと我に返った。 「え、呼んだ?」 タクミは有無を言わさず薫をサインの前に押した。 「ほら、隠れた。背が高いってのはこういう時便利でいいね」 事情が分からないまま、薫は曖昧な笑みを浮かべた。 「カオル。だいぶ疲れてるだろ」 カツユキの肩ごしにマサルが言った。 マサルも薫並みに背が高いので、こういった撮影では必ず二人は隣り合って並ばないようにされる。だから最初は両端にいたのだが、タクミに押されて今、薫は中央に立っていた。 「うん、ちょっと。時差ボケであまり寝られないからかな」 「そっか。昨日、早々と部屋に帰ったから、夜行性のオレと違ってじゅうぶん寝てるんだろうと思ってた」 「部屋には戻ったけど、結局、本読んだりして夜更かししちゃって」 しゃべっている間にもフラッシュは容赦なく焚かれる。 日本から同行しているこのカメラマンはあまりポーズを取らせたりはしない。大まかに設定だけ決めて、あとは様子を見ながらひたすら枚数撮っているようだ。 ハンディカムも相変わらずカメラの背後から五人の動きを逐一撮り続けている。この担当はレコード会社からの派遣だが、出来上がったビデオは新曲のプロモーションだけでなく、公式ウェブサイトのムービーとしてやコンピューターの動画カードなど、それこそ余すところなく使われることになっている。 何度かカメラマンの求めに応じて一斉にカメラを見たりするほかはただ雑談するだけで、そのうち「はい、終わりました」と声がかかり、撮影は思ったよりあっけなく終わった。 「やっと終わったー」 タクミが歓声をあげ、ストールを頭から被っておどけてみせた。 「メシ、メシ」 ケンゴが吠えた。 マサルはメンバーの肩を叩くと、そのままカメラマンに歩み寄り握手を求めた。 薫はそれを見、宙に向かって大きく白い息を吐いた。 「な、カオル」 カツユキが薫のコートを横から引っ張った。 「聞いたか」 「何を」 カツユキは他のメンバーを見渡すと、薫だけに聞こえるように小声でささやいた。 「さっきディレクターが藤崎女史に話してるのが聞こえたんだけどさ、明日の「ヒストリー・リターンズ」のビデオ撮りで俺とお前のパートを交換できないかって相談してた」 「パートを‥交換‥‥?」 「だからっ、「ヒストリー・リターンズ」でお前がリードやって俺がベースをやらされるってことだよ」 「そうなの?」 他のメンバーの後からトレーラーに向かって歩き出したカツユキは薫がぼんやり立ったままなのを見ると舌うちして「来いっ」とあごをしゃくった。 「この話、全然誰からも聞いてないのか?」 「うん。今が初耳」 「その様子じゃ、お前が言い出しっぺじゃなさそうだな」 「違うよ」 それを聞いてカツユキは少し気が晴れたようだった。 「そっか。俺、お前がやりたがってたのかと思ってた。さっきはいきなりThunderstruckなんて激しいのを弾き出すし、てっきり自分がリードやるっていう意思表示だと‥」 薫は革の手袋を嵌めた両手を振った。 「とんでもない。あれは本当にただ弾きたかっただけだよ。それに、急にパート替われなんて言われても、僕が弾けるわけないじゃない」 「AC/DCとかメタリカなんかガンガン弾きまくってるくせに?」 「うん。ニュー・ムーンのリードギターは白木克之で、僕はリズム&ベース専門。これは誰が何と言おうと変わらない」 「後でディレクターから話があったらどうする?」 「断るよ、絶対」 カツユキの顔に笑みが戻った。 「お前、普段はボーッとして頼りないけど、いざとなったら勇気あるな。‥‥よーし、すっきりしたところで今晩は飲みに行くぞー!カオルもつきあえよ!」 「一軒だけだよ。カツユキの相手してたら撃沈して明日起きられなくなるからね」 苦笑しながら薫はうなずいた。 「えっと、明日のスケジュールはここから朝一でインバネスに飛んで、ネス湖を含むインバネス周辺で少し撮影をします。その後今度はバスでウラプールに行って、そこからフェリーでルイス島のストーノウェイに移動します。そしてストーノウェイからは車でカラニッシュの遺跡まで行って、そこで撮影です。着くのはたぶん三時ごろですが、ちょうど日没の撮影を計画しているので、現場に着いたらすぐスタンバイに入って下さい」 ホテルへ向かうバスの中でマネージャーの藤崎がラウドスピーカーで明日の予定を言った。「インバネスってどこ?」「ネス湖に行くの!?」「島?」「え、何の遺跡だって?」聞いている皆は口々に質問を口にするが、藤崎は「明日になれば分かりますから、とにかく体力だけは温存しといてください」とだけ言い、さっさとスピーカーを切ってしまった。 「遺跡?」 薫は前に座っていたマサルにたずねた。 「うん。林さんから聞いたけど、大きい岩がサークル状になっているんだってさ」 「それって‥‥ストーン・ヘンジとか何とか言うんじゃなかったっけ?」 マサルはうなずいた。 「そう。ほんとは林さんもそこで撮りたかったらしいけど、あそこは世界遺産に指定されてるから、そう簡単に撮影許可が下りないんだってさ。だから、ストーン・ヘンジに似てて、でももっとマイナーなヤツで撮ることにしたらしい。そうすれば、ビデオ見せても「ああ、あんなすごいところで撮ってる」って思われるだろ?」 マサルの説明を聞きながら、薫は小さくあくびをした。 「そんなことするくらいなら、リアルな模型でも使って撮ればいいのに」 「ダメだよ。海外でロケするから価値があるんだ。変なところで金をケチるとCDのセールスに響くんだと。レコード会社によると」 いつもスタッフと談笑しているせいか、マサルは何でも知っていて、事が公になる前に情報をリークしてくる。今度の海外ロケでも、みんな一緒の時間を過ごしているはずなのに、マサルはもうすでにディレクターの林やEMNレコードの笠原と親しく口をきくようになっていた。こうやってマサルがリーダーとして外交役を買って出てくれていることは音楽中心でコミュニケーション能力に欠ける他のメンバーにとって大いに助かるのだが、世間はそんな風に受け止めていない。 ニュームーンがメジャーデビューしてからまだ二年ちょっとだが、その間バンドは何度となくゴシップ記事の対象となった。まず、女性問題。次に薬物。そしてバンドの解散。メンバー全員がまだ独身なため女性問題についていろいろ取りざたされるのは避けられないことかもしれないが、バンド=薬物という構図はあまりに安直であるし、解散に到ってはほとんどこじつけでしかなかった。 マサルの親しみやすくサービス旺盛なキャラクターが受けてバンドの仕事以外にもテレビやラジオに引っ張られると、マスコミはすぐに「ニュームーン解散か?!」と書き立てる。カツユキがギターのメーカーのキャラクターとしてCMに出ると「独立?」となり、タクミがちょっと辛辣に他のメンバーの洋服のセンスについてコメントしただけで「ファッション戦争勃発!」という記事が踊る。かわいそうなのがにケンゴで、普通に喋っていても言葉遣いが乱暴なため「ケンゴとカツユキが絶交!!」などと騒がれてしまう。 コンサート以外はほとんど人前に出ない薫でさえ、数カ月前にどうしても断り切れず女性アイドル歌手と一緒にファッション雑誌のグラビア用写真を撮った時は、すぐさま「カオル、パリコレ進出?」「新ユニット結成?!」という見出しが立て続けに女性雑誌についた。 しかし、実際のニュームーンのメンバーはスケジュールにがんじがらめにされていて、ゴシップネタになるような問題を起こす余裕もない。 マサルがその後何か言い、自分もそれに対して返事をしたようだったが、もう記憶にない。ヒーターのきいた車内で薫はいつの間にか眠っていた。 「マサル、来てない?」 ドアのチェーンを外すなり、藤崎が飛び込んで来た。 「え?マサル?」 止める間もなく部屋を歩き回り、勝手にカーテンを開けたりバスルームの中をのぞく藤崎を薫はあっけにとられて見ていた。 日本でもノックなしに藤崎が控え室に入ってくるのは当たり前だが、ホテルの部屋まで来たのはこれが初めてだった。 「いないようね。やられたわ」 「外出?」 「そう。カツユキもよ!私の許可なしに。アッタマ来ちゃう!」 藤崎はそう言うと踵の尖ったハイヒールで地団駄を踏んだ。 どうやら藤崎に隠れてマサルとカツユキが連れ立って出かけたらしい。昨日の夜も彼らは空港からホテルにチェックインするなり「偵察、行ってきまーす」とそのまま地元のパブに行ってしまった。 「今日は午後は街を見せて、夜だってちゃんとしたレストランに連れてったじゃない。どうしてそれじゃ足りないのかしら、アイツらは〜」 「すぐ戻ってくるんじゃない?」 「まさか。また明け方近くに迷って「ホテルの名前、なんだっけ〜?」なんて電話かけてくるのよ。まったく、明日がどれだけ大変か分かってないんだからっ!」 「携帯に電話してみた?」 「したわよ!出るわけないじゃない。アイツらお出かけするときは事前にちゃんと携帯切ってるのよ」 一気にそこまでまくしたてると、藤崎はソファーに沈み込んだ。 「美波さん、何か飲む?」 「ウォッカをストレートで一気飲みしたい気分」 「ミニバーにあるか見てみるね」 薫が備え付けのキャビネットを開けようとするのを藤崎は爪を真っ赤に塗った手を振って止めた。 「冗談よ。明日のことを考えたら、私まで酔っぱらってるわけにはいかないわ」 そして、あらためて薫を上から下までじっと見た。 「あら、お風呂上がりだったの?」 そう言われて薫は自分が着ているグリーンのスウェットの上下を見た。三十分ほど前にシャワーを浴びて、今までくつろいでいたのだ。片や藤崎は今まで仕事を続けていたのか、もう十二時だというのに昼と同じ紫のパンツスーツのままである。スーツの紫と赤いピンヒールの間の黒いストッキングが少し伝線しているのに気づき、薫は慌ててよそを向いた。 「他の連中もカオルみたいにいつもこぎれいで行儀良くしててくれると助かるんだけどなぁ。‥‥でも」 藤崎は手招きし、薫が近づくと手を伸ばして指先を髪に通した。 「髪、ちゃんと乾かしときなさいよ。ちょっとでも濡れたまま寝ると一発で風邪引くんだから」 指を離すと、目を細めた。 「あ〜あ。こんなにグチばっかり言っちゃって、何だかまるでお母さんみたい、私ったら」 マニキュアと同じ色の唇がつり上がり、笑みを作った。そのままソファーから立ち上がると、さっさとドアに向かう。 「アイツらのことはしょうがない。こうなったら早く帰ってくるのを祈るのみだわ。カオルも、もしヤツらから連絡があったら早く帰るように言っといてね」 「分かった」 「それから最後にグチ言わせて」 ドアを半分開けたところで藤崎は振り向いた。 「インターネットやメールチェックは自由だけど、いつまでも夜更かししないように。朝、起きられなくなるわよ」 薫はテーブルの上のノートパソコンを見た。 藤崎が来てから触らなかったので、インターネットの回線は既に切れてしまっていた。 「じゃあ、おやすみなさい」 藤崎のハイヒールがドアの外のマーブルのフロアに当たり、コツンと堅い音を立てた。 「アンタはね。私はまたひと仕事するわ」 エレベーターに向かった藤崎はヒールを鳴らしながら二、三歩進むと立ち止まり、ドアから顔を出したまま見送っている薫を見た。 「あ、あと一つ」 人さし指を立て、左右に振る。 「誰にでも簡単にドア開けちゃダメよ。気をつけなきゃ。外国だから余計危ないってこともあるけど、アンタの場合は‥‥」 藤崎の姿がエレベーターホールに消え、声だけが残った。 「スキャンダルのもとよ。さっさとドア閉めときなさい」 From: Moon Sailor Date: 2004.2.28 00:19:18 Edinburgh/UK To: mai-chan@yahoo.com Subject: 今、エジンバラだよ まいちゃん、元気? 僕は今、仕事でエジンバラに来てる。 エジンバラって知ってる? まいちゃんはもう地理かなんかで習ってるかな? イギリスはイングランドとウェールズとスコットランドと北アイルランドという国から出来てるんだ。だから首都もそれぞれあるんだよ。 で、スコットランドの首都がエジンバラなんだ。 エジンバラには何百年も前の石でできたお城や古い建物がたくさんあって、今でも人が住んでいるんだ。街についてもっと知りたかったけど、仕事で来てるから観光する時間が全然なくて、みんなと街の中心をちょっと歩いただけ。とても残念だった。 それから、エジンバラはとっても寒い。 今日は夜明けから仕事だったんだけど、寒くてさむくて死にそうになった。 Tシャツ着て、シャツ2枚着て、セーター着て、その上にコート着てもまだ寒いんだよ。足だって、ブーツの下に厚い靴下はいてても、冷たくなって感覚がなくなっちゃうんだ。 早く日本に帰りたくなったよ。 明日はルイスという島に行くことになっている。 そこには遺跡があるんだって。 時間があったら、遺跡の写真を撮りたいと思ってる。 うまく撮れたら送るね。 じゃあ、テストがんばって。 ムーンセーラーより 呼び出し音が何度か鳴り、自動的に留守電に切り替わる直前に誰かが受話器を取った。 「もしもし。夜分遅くすみません」 「ああ。そろそろ連絡があるんじゃないかと思って待ってたところだ。どうだ、エジンバラは」 「寒いですね。緯度が高いから覚悟はしてましたけど、やっぱり予想よりももっともっと寒くって」 「体は大丈夫か。暖かくしてるか?」 「ええ。撮影をしている時以外はトレーラーの中で待機しているかホテルにいますから、おかげさまで風邪は引いてません。でも、何だか時差ボケでボーッとしちゃって」 「そういう時は一晩ガーッと飲んで寝ちまうんだ。そうすれば、次の日からバッチリ現地時間になるぞ」 「そうですか。今度試してみようかな。マサルやカツユキは着いた夜から遊びに出てるせいか、時差ボケなんて全然なさそうですよ」 「アイツららしいな。外国だからって羽伸ばすと激写されるから気をつけとけよ。ところで、撮影はどうなってる?」 「順調なんだと思います。撮り直しって言われてないですし」 「ちゃんと弾けたか?」 「と、思います。撮影前にギターをアンプにつないで外で本当に音出して弾いたんですよ」 「何を演ったんだ?」 「AC/DC。すごく良かった」 受話器の向こうはしばらく沈黙した。 「カオルらしいチョイスだな。いつになっても。もし‥‥アンタだったら何を選んだ?」 「私ですか?‥‥私なら絶対にThe Lunatic Loversですね」 「TLLか。やっぱりそうだよな。俺も、イギリスでビデオ撮りが決まった時からTLLをイメージしてたんだ。『よし、The Lunatic Lovers発祥の地エジンバラでやるぞ』って。‥‥悔しいぜ、一緒に行けなくなってさ」 「またチャンスはありますよ。無理しなければ」 「どうだかな。カオルがエジンバラの街なかでMidnight Call弾いてるとこを見たかったな」 「明日も次の曲の撮影が入ってますから、ご希望なら‥」 「カオルにTLLが出来るのか?」 「さあ。でも、薫くんがダメでも私が弾くかもしれませんよ」 「弾けるのか、本当に?」 「アンプにつながなければ」 受話器を境に両側からひとしきり笑い声が響いた。 < 前のページ次のページ >
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