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2004年 07月 09日
THE DELICIOUS BOY prologue 智美は音を立てないように廊下を早歩きしていた。 この時のために、カバンにつけていた首に小さな鈴のついているネコの人形もあらかじめ外して家に置いてある。 ポケットの中には先週の水曜日塾に行く時に駅で時刻表を写した紙が入ってい て、歩くたびに内側からスカートのひだにかすかに触れた。 何だか体がふわふわとして歩いていても体重が感じられない。 頭だけが胸の鼓動と連動して熱くうずいている。 次に取る行動の順序を考えていないと気が遠くなって倒れてしまいそうなほど足取りがおぼつかなかった。 しかし。 ここまでは計画した通りうまく行っている。 あとはこの廊下を抜けて、階段を降り、一階の通路から一号舎の玄関までたどり着けばいいのだ。 突然、歓声が上がり、智美はビクッと立ちつくした。 2C。きっとヒロクニの英語の授業だ。 智美のクラスには明日の三限に来る。 明日? 想像がつかない。 今日のことは計画を立ててから今までの間に何度もなんども考え続けてきたが、この後に明日が来るなんて思いもしなかった。 左手の腕時計を見た。 ウサギの人気キャラクターがついていて、今年の春自分で気に入って買ったものだが、今はそれが妙に子供っぽく見える。 一時二十二分。 保健室を出てからもうずいぶん経ったような気がするが、まだ七分しか過ぎていない。その間、みんな理科室に行っていて誰もいない自分の教室に戻り、体操着から制服に着替えてここまで来たのに。 クラスの誰にもこの計画は話してない。 知っているのは塾で知り合った他の中学に通っている金森京子だけだ。 京子とは駅で待ち合わせることになっている。 『アタシの学校は結構ユルいんだ、そういうとこ』 昨日電話で話した時、京子はそう言っていた。 『公認ってワケじゃないけど、補導さえされなきゃ、たいていのことはオッケーなの』 自由な校風で知られている芸術系の私立大付属に通う京子は髪を赤茶に染めている。服だって、学校から直接塾に来る時でも学校の標準服ではなく、いつも原色や蛍光色の入ったようなものばかり好んで着ている。 きっと今ごろ京子は駅に続く商店街を大手を振って歩いているはずだ。 階段にたどりついた。 授業中の学校はときおり笑い声が上がったりグラウンドからホイッスルの音が聞こえてくるくらいで、あとはいたって静かである。 ゴム底の上履きが階段の滑り止めの金属に当たる感触が何となく心地悪かった。 緊張している時、どうして足の裏が敏感になるのだろう。 智美は階段の側面のカーブを描く壁に手をつけながら降りて行った。 今、智美は先月のこづかいと今月分を合わせた五千円を持っていた。使いやすいように、一枚の札ではなく、千円札と小銭にしてサイフと定期入れに分けて入れてある。 もう少しあったほうが安心なのだが、計画を立てる前にもらったお年玉は銀行に預けてしまっていた。家族に怪しまれたら困るのでおろすことは出来ず、月々のこづかいに頼るしかなかった。 クラスメートの中には一か月で五千円以上貰っているものもいたし、家が商売をしている京子などは常に財布に一万円札を入れている。今までこづかいにそれほど不満を持っていなかった智美だが、計画が近づくにつれていろいろやりくりしなければならない自分の環境がうらめしくなった。 一階についた。 通路は二階にも三階にもあるが、智美は一号舎に行く時はいつも一階を通った。一階は側壁がなく、コンクリートの上をじかに歩くようになっているのだ。いざとなれば中庭にも下りることが出来るようになっているので、今日の計画には便利でもある。 九月の午後の太陽が智美の目をまっすぐ射た。 まだ夏休みの時と同じ怠惰な熱をはらんでいる。 午前中の体育の授業から保健室にいたため、弁当はまだ食べていない。 この暑さを考えると後でどこかで食べるより、駅のゴミ箱にでも捨ててしまった方がよさそうに思えた。 幸い通路でも誰にも出会わなかったので、智美はほっとした。 今日のきょうまで智美はごく平均的な学生だと自分でも思っていた。 成績はものすごく良いわけではないが、悪いということはない。 クラブ活動にも参加しているし、週二日は学校の帰りに塾に行って数学と英語を勉強している。今まで自分の素行で教師に注意されたり、親が呼び出されたことなどもちろんない。 この学校にも不良と呼ばれている学生はいるし、智美も噂というかたちで彼らの引き起こした出来事について聞いている。しかし、それらは不良がやっていることで、自分とは無縁だと思って来た。 その自分が授業中に玄関の下駄箱を開けて靴を出そうとしている。 上履きを脱いだ。 いつものように週末に洗い、月曜日に持って来た上履きだが、今日は汗で湿って薄汚れて見えた。 靴は今朝、二足あるうちの黒いがあまり学生靴に見えない方を履いて来た。昨日の晩、黒いタンクトップと赤いチェックのフレアスカートと一緒に履いて鏡の前で自然に見えることを確認しておいた。 そしてそのタンクトップとフレアスカートは紙袋に入れて化粧品の入った小さなポーチと一緒に駅のロッカーに隠してある。 上履きを下駄箱に入れ、靴を履いて玄関を通る。 傘立てが目に入った。 今朝のテレビで見た天気予報では夕方から雨になる可能性があると言っていたが、荷物になるから傘は持って来なかった。 たとえ雨が降るとしても傘は要らないような気がした。 ワイヤーの入った二重ガラスの頑丈なドアを開ければ校門までコンクリートの歩道がまっすぐ伸びている。 智美は力を入れて、ドアの一つを押した。 「おい」 後ろから声がかかった。 智美はすくみあがった。 「そこで何やってるんだ」 振り向くと、体育科で生活指導の河井が黒いジャージを着て立っていた。 「お前、ええと、2Bの渡辺だよな。帰るのか?」 智美は慌ててうなずいた。 「どうしたんだ」 『保健室で寝てたんですけど、具合が悪いので早退していいと言われました』 『具合が悪いので、病院に行きます』 『これから病院の予約が入ってます』 『母が病気だって学校に連絡があったんです』 『父が会社で怪我をしたと母から学校に連絡があったんです』 『テニス部の練習試合に行くところです』 一瞬のうちに考えていた言い訳が一気に頭の中に浮かび上がった。 「ええと‥その‥」 「小林先生にはもう言ってあるのか」 「あ、あの‥‥」 教室の教壇には保健の先生が早退する学生に渡す証明の紙が置いてある。 担任の小林は後でそれを見て智美が早退したと信じるはずだ。 しかし。 それは本物ではない。 数週間前、保健室を掃除したときに机の引き出しから取った二枚の用紙のうちの一枚で、保健の先生のサインを真似てし、早退の項目に丸をつけておいた。そしてもう一枚は制服を着替える前に外で輔導されそうになった場合のために、同じようにサインをしてカバンに入れてある。 保健の先生にはもう具合が良くなったと言ってあるので、彼女は智美がクラスに戻ったと思っているだろう。 「勝手に帰らないで小林先生のところに寄っていけ。俺も職員室行くところだから」 智美は時計を見た。 一時二十四分。 ここから駅までは歩いて三十分はかかる。 京子とは二時に会う約束をしたが、遅くなっても二時十分まではプラットフォームへ降りる階段の前で待っていてくれることになっている。 電車が来るのが二時十五分。 これをのがしたら、次に来る快速は三十分後になるが、このあと乗り換えを二回して東京まで行って、そこから地下鉄を乗り継いで九段下に出、さらに十分ほど歩くのだ。週末に学校の友達と連れ立って東京に行っている京子と違って、智美にはとても一人で行く自信はなかった。 今、行かなきゃ間に合わない。 「渡辺、どうしたんだ」 再び背を向け、ドアを押した智美に河井が声をかけた。 「待て。勝手に帰るな!」 河井が上履きのサンダルを履いたままこちらに来るのが分かる。 智美はドアを大きく開け、外に走り出た。 「渡辺!」 まぶしい。 外の空気が熱い。 智美は歩道を走った。 校門の通用口が閉まっているのが見えた。 車用の正面口を押して開けるしかない。 「わたなべーっ!」 河井が怒鳴っているのが聞こえた。 ドアを開け、智美を追って歩道を走ってくる。 「止まれ、わたなべっ!」 智美は渾身の力を込めて鉄枠を押した。 黒い鉄枠がゆっくり動いて行く。 これを開ければ、外に出られる。 駅には京子が待っているはず。 チケットを持って。 京子と一緒に行くのだ。 東京に。 武道館のコンサートに。 鉄枠を握りしめた智美の右手を河井がつかんだ。 ぐいっと後に引っぱられ、智美はコンクリートの上にしりもちをついた。 「来い。職員室で話を聞く」 鉄枠の前に河井が立ちふさがって太陽が遮られ、智美の上に黒い影を落とした。 「カバンを拾え、渡辺」 智美は這いずってカバンを持つと、のろのろと立ち上がった。 背後で鈍い金属音がした。おそらく河井が力任せに鉄枠をコンクリートの校門にぶちあてたのだろう。しかし、今の智美には何も見えなかった。 目の前でゆらいでいるのが陽炎なのか、涙なのかさえ分からなかった。 < 前のページ次のページ >
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