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2004年 09月 24日
THE DELICIOUS BOY CHAPTER-7 Edinburgh ペットボトルの中の水が振動し、絶えず細かい波紋を浮かべている。 ボトルの側に生けてあるユリの花もわずかであるが揺れ、いつの間にか白いエナメルの上にオレンジ色の花粉を落としていた。 さきほどから細い指が休みなく鍵盤の上をさまよい、重厚な音を叩き出している。 「ルーベンスタインはきっと指がものすごく長いんだよね。そうじゃなきゃ、こんなの軽々弾けないよ」 言葉とうらはらに指は楽々と離れた鍵盤を同時に押し、音が途切れる隙を与えない。 「ここのパート、僕好きなんだ」 指がひときわ素早く鍵盤を撫で、水の流れを思わせる一連の音を奏でた。 「ほーら、きれいでしょ」 そのあとに指を直角に曲げて力強く和音を数回続けて叩き出すと、タクミはふうっと息をついた。 「タクミ、すごいっ!」 「エルトン・ジョンもまっつぁおってか?」 「ニュームーンやめてピアニストに転向しろ」 朝食の後、ラウンジでコーヒーを飲んでいたメンバーはタクミをはやし立て、タクミも大げさにお辞儀をして見せた。 ルイス島での撮影を無事済ませた一行は翌日一番の飛行機でエジンバラに戻って来ていた。当初の予定では、サードアルバムの中でシングルカットが内定している四曲すべてをスコットランド各地の風景で撮ることになっていたが、やはり一曲くらいはライブの演奏風景にしたい、という意見がバンドのメンバーを中心に出たため、ディレクターの林とEMNレコードの笠原と藤崎は協議を重ね、ルイス島を離れる前に、グラスゴーでの屋外ロケを取り止め、エジンバラでライブの撮影を行うことを決定していた。 そのため、日本を離れて数日ぶりにメンバーはやっとゆっくりした朝を迎えていた。 「こういうところに置いてあるわりに、コンディションはいいほうだよ、これ」 グランドピアノの蓋を閉めながらタクミが言った。 「色は気に入らないけどね。どうしてこういうとこのピアノって白なんだろうね。チープに見えちゃうよ」 このホテルはスコットランド初日に泊まった大手のホテルチェーンとは違って、こじんまりとしていた。シーズンオフということもあり、宿泊客はニュームーンのスコットランドロケの関係者を除くと他は二、三組だけで、ほとんど貸し切り状態になっている。 「マサルは?」 ソファーに座ったタクミは周囲を見回した。 「さっき美波さんと出かけてったよ。ライブができるところさがしに」 「ご苦労なこった」 カツユキが憮然とした表情で言った。カツユキはおとといのルイス島ロケで古い城壁の上に立って寒風の中、延々ギターを弾き続けたのだが、以来、体調を壊し、昨日は熱を出して一日ホテルの部屋で寝ていた。 「どうせライブするなら、「トレインスポッティング」のシーンに出てくるような、ちょっとあぶなげなパブがいいな」 タクミが指を組み、睫毛をぱたつかせて言った。朝だと言うのに、すでに紫のコンタクトレンズを入れ、薄くメイクすらしてある。 「バカ言え」 ケンゴが一喝した。 「お前みたいなのがふらふら入って行ったら、「へーんなのが来た」って、スキンヘッドの奴らにボコボコにされるのがオチだぜ」 タクミは頬をふくらませた。 「そんなこと言うと、本当にピアニストに転向しちゃうよ」 「できねーよ。「デーハーなヤツだ」って、他のピアニストにボコボコにされるぜ」 拓海は出身は健吾や薫と同じ九州ということになっているが、実際に生まれたのはブルネイで、物心つく前から油田プラントの技師をしている父の仕事に合わせてラゴスやカラカス、バーデン、テキサスなど世界各地を転々とする生活をしていた。 高校受験を控え、中学二年のときに母親や妹たちと日本に帰国し、母の実家に近い北九州の公立中学に通いはじめたが、どうしても日本の学校に馴染めず、また、太っていることを理由に当時のクラスメートにいじめられたため、拓海はたちまち不登校になった。そして結局、中学は何とか形の上で卒業はできたが、高校に進むことはなかった。 拓海が生い立ちも生活環境も全然違う健吾や薫と知り合ったのはまったくの偶然で、ドラムスティックとピックを補給に楽器屋に来た彼らが店内にディスプレイしてあるシンセサイザーを華麗に弾きこなす太った少年を見て声をかけたのが最初だった。 『オレら、バンドやってんだけどさ、キーボードできるヤツがいないんだよな。キミ、やってみる気ない?』 ありきたりな会話の後、突然、健吾にそう言われ、拓海はたちまち耳まで赤くなった。 『え。でも、いいの?僕、こうだから、ステージ衣装とか着れないかもしれないよ』 健吾はその言葉に吹き出した。 『何言ってるんだよ。ちゃんと演奏できりゃ、そんなこと、どーだっていいだろ?』 その一言で拓海はまだ名もないバンドのメンバーになることに決めた。 拓海のバンド入りに対し、当然、両親、特に母親は反対だった。母親は拓海に泣きつき、バンドのメンバーを「不良」と罵り、バンドの後押しをしていた高梨を「ゴロツキ」となじった。 しかし、拓海は自分の決意を変えようとしなかった。 世界各地、特に治安の悪い国では、高いフェンスに囲まれたガード付きの家の中だけが拓海の空間であり、外で友達と遊ぶ代わりに、拓海は幼い頃から習ったピアノを弾き、コンピューターゲームをすることで自分の空間を満たして来た。言わば拓海は無菌室で育った赤ん坊だったのだ。 無菌室から突然、日本の中学校という全く異なる世界に放り込まれ、なすすべもなくこづきまわされ傷つけられた少年は無菌室に戻るのでなく、バンドという新たな世界に再生への道を見つけだしたのかもしれなかった。 バンドに入るなり、健吾は拓海を「キミ」ではなく「お前」と呼び捨てにし、ことあるごとにそのお坊っちゃんぶりをからかった。が、拓海は気にしなかった。なぜなら、今までの人生の中で、そこまで拓海の空間に入り込んで来たのは健吾と薫が初めてだったからである。 そして、健吾と薫は拓海が初めて友と呼べる人間となった。 「おい、カオル」 指でぐりぐりと目頭を揉んでいたカツユキが不意に声をかけた。 「なに?」 「もし、ここでライブするなら、お前、何、演るのがいいと思う?」 薫は天井を見上げた。 「‥そうだね。サードCDからなら「ラスト・チャリオット」かな?」 「やっぱそうか。俺もそう思った。「ファイヤー・ウィズイン」だと、ちょっと静かすぎるよな」 「うん」 「「ラスト・チャリオット」なら、こっちの連中に一発おみまいするようなトコあるじゃん?例えば」 カツユキは空間をつかみ、幻の弦を弾いた。 「ここんとこなんか、なかなかいいぜ」 カツユキは楽譜が読めない。自分の弾いている旋律をギターコードに書き取ることも ほとんどしない。典型的な音楽先行型で、音を言葉や記号に置き換える能力が皆無なのである。そのため、新曲を作る時にはとにかくセッションを繰り返し、自分が納得いくまで限りない音のパターンを出して行く。しかし、音作りに関しては天性の才能を持っており、アドリブのソロをさせると若手では右に出る者はいないと言われている。 左手が一気に数フレット手前に滑り、右手が左手すれすれに見えないピックを斬りつける。同時に喉の奥から旋律が漏れた。 「で、ここにケンゴのソロがバシッと入る。決まりだぜ」 薫は目を細めて同意した。 「ところで、演るのは一曲だけなの?」 コーヒーテーブルの上に置いてあった今朝のThe Scotsmanを読んでいたタクミが顔を上げて聞いた。 「さあな。でも、一曲だけやって「ほな、サイナラ」ってワケにはいかないんじゃねえ?ついでに二、三曲は演るとオレは見たね」 新聞のマンガの部分だけ覗き見しながらケンゴが答えた。 「じゃあ、「リトル・ドラマー」と「シップレック・ソング」かな、やっぱり」 「分からないぜ。いきなり、ご当地ソングのリクエストなんて出るかもよ」 「何だろ?「エジンバラ音頭」とか?」 「あほう!」 薫はタクミとケンゴの掛け合い漫才のような会話を聞くとはなしに聞いていたが、頭の中にはさきほどからある旋律が流れ続けていた。 やっと貰えた自由時間であるが、しばらくするとメンバーたちは暇を持て余しはじめた。藤崎とマサルはまだ戻らないが、ここで待機するようにとも言われていないので、外出オッケーであろうと勝手に解釈することにした。 「俺、まだ本調子じゃねーや、パス」 カツユキはそう言うと、自室に向かって歩き出した。 「オレは‥ちょっとヤボ用」 ケンゴは指で寝癖のついた髪を撫でつけた。 「あ、デート。どーぞ、行ってらっしゃい」 タクミは手を振ってケンゴを見送った。 「カオルは?行こーよ」 「うん、いいよ」 薫は立ち上がった。数百年前の建物をそのままホテルとして使っているため、天井も窓もすべてが小作りで、自分がまるで巨大化したかのようにすべてが低く見えた。 地下の排水溝から湯気が上がっている。 「う〜。もう慣れたかと思ったけど、さむいなー、ここはー」 「ほんと」 二人は石畳を歩いていた。 もう昼近いのだが、気温が上がるようすはまったくなく、朝と同じ薄暗い空が建物の上に広がっている。 「カオルは、何かおみやげとか買うの?」 薫は首を振った。 「そう。いいな。僕なんて、悲惨だよ。ママと妹たちに買い物のリスト渡されてるんだから」 タクミはそう言って、ムートンのポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出した。 「免税関係は空港で買うからいいとして、あとは、プリングルのセーターにセント・アンドリュースのゴルフウェア。それから、本物のタータンチェックの生地コート一着分。ウチのママ、幅あるから、普通より多く生地買わなきゃならないんだよ、きっと」 タクミのため息が白く曇った。 「だれかスタッフに頼んで買っといてもらっちゃおうかな。こんなのイチイチ探してらんないよ」 ホテルのあるエジンバラ市街の西側から大通り沿いにゆっくり中心部に向かって歩いたが、タクミのリストにあるような品物をまとめて売っているような都合のいい店はなかった。 「あー、でも、こういうのって久しぶりだよね」 タクミは金髪の頭を左右に振った。耳から下がった銀色のクロスが宙に浮き、きらきらと光る。 「もし、東京だったら、もう、誰かが「キャー」って言って、あっという間にもみくちゃでしょ?でも、ここなら誰も騒がないし」 「うん」 薫はうなずいた。 「じゃあ、もう一軒行こうか。僕、ドクター・マーテンのゴツいワークブーツ欲しかったんだよね。カオルも買いなよ。ここなら大きいサイズの靴、簡単に手に入るよ」 そう言うと、タクミはショッピングバッグを手に意気揚々と歩き出した。他人の買い物は苦痛でも、自分のはそうでもないらしい。 約一時間後。二人はようやく街の中心にたどり着いたが、その頃には二人ともショッピングバッグと紙包みで身動きもやっとという状態になっていた。 「ありがとね、持ってくれて」 ショッピングバッグの束を引きずるようにして歩いているタクミが振り向いた。 「いいよ。でも、そろそろこれ何とかしないと」 薫はバッグの角が足に当たるのに閉口しながら言った。 「そうだね。タクシー拾ってホテルに帰るってテもあるけど、せっかくここまで来たんだから、ランチくらいはここで食べて行きたいよね。ロッカー探すのもコトだし‥郵便局から送っちゃおうか」 タクミがあごで差す先に英国郵便のサインを掲げたどこか教会を思わせる古い石造りの建物があった。 「空港とかでさ、よくみんな、おみやげいっぱい載せたカート押してるじゃない?僕、あれ嫌いなんだ。何だか無理矢理規定重量ギリギリ飛行機に積んできましたって感じでカッコワルイじゃない?」 手際良く荷物を小分けし、郵便局の段ボール箱に詰めながらタクミが言った。 「それにさ。小包を待つ間って、結構いい冷却期間なんだよね」 「冷却期間?」 タクミの作業を見ていた薫が聞き返した。 「うん。本当にそれが欲しかったのか、冷静になって考える時間ってこと。小包開けた時うれしかったら、それは本物だろうし、そうじゃなかったら、ただの衝動買いだって分かるじゃない」 「衝動買いって分かったらどうするの?」 タクミは顔を上げて薫を見、舌を出した。 「無駄遣いしたなってちょっと落ち込む。で、誰かにあげちゃう。あと、よくあるじゃない?チャリティーでセレブのアイテムをオークションにかけたりするの。そういうのにもパッパと出しちゃう。一度欲しくないって分かったら、身の回りに置いときたくないからね」 「じゃあ、無駄になってないね」 「そうかな。あ、箱一つあまっちゃった。無駄になったー」 タクミは靴箱ほどのサイズの段ボールを振って見せた。 「カオル、何か送るものない?」 薫はタクミの持つ箱をじっと見ていたが、急に立ち上がった。 「ちょっと待っててくれる?五分くらい」 タクミはあっけにとられて黒いロングコートをはためかせて建物を出て行く薫を見送った。 きっかり五分後、薫は戻って来た。 片手にギフトショップの名前の入った金色のビニール袋を持っている。 「お待たせ」 「わ、早かったね。買い物、大丈夫だった?」 薫はうなずいた。 「うん。買うもの決まってたから、それ渡して、お金払っただけ。何も喋らなかった」 「何買ったの?」 薫はちょっとバツが悪そうな顔をしたが、袋を開け、中身を出した。 「へえ、カワイイ。スコッチテリアか」 手のひらに乗るくらいの小振りのぬいぐるみだった。青地のタータンチェックで出来ており、赤い帽子を被っている。 「さっき、タクミが買い物している間、見てたんだ。いいな、と思って」 「自分の‥じゃないよね?」 「うん。おみやげ」 心なしか、薫はうきうきしているようで、箱の山を苦労しながらガムテープで封印しているタクミの横で、鼻歌混じりに丁寧にぬいぐるみの値札を剥がし、セロファンで包み、小箱に納めていた。 造りは違うが、郵便局の業務自体は日本とほとんど同じで、窓口に行って、必要事項をステッカーに記入して料金を払えば、小包の発送はそれで完了である。 「テロ対策とかでもっと厳しいかと思った」 「そんなのいちいちやってたら、片づかないからじゃないの?」 「そうだね」 二人はカウンターの上に山のように箱を積み上げた。 「カオル、じゃあ、ここに受取り人に住所と名前を書いて。品物と金額のところはもう僕書いといたから」 「ありがとう。漢字で書いていいんだよね?」 薫は紐のついた郵便局のボールペンでステッカーに字を書き出した。 「‥こやま・まい?女の子じゃない」 いつの間にかタクミが横から薫の書いているステッカーを覗き見していた。 「子供だよ。親戚の」 薫は慌てて書き終えると、小包を窓口の局員に手渡した。 「*&^%$#@!」 局員はいったん受け取ったが、何か言って薫に小包を押し戻した。 「タクミ、今、何て?」 「You've forgotten to write your name and sign it.自分の名前とサイン書いてないよ、だって」 「ああ」 薫はボールペンを握った。 しかし、ペン先はステッカーについたまま動かない。 「どしたの。名前とサイン。ほら、パスポートとかトラベラーズチェックのと同じでいいんだよ」 タクミは焦れて横から薫の顔をうかがった。 「名前とサイン。カオル?」 薫は目を閉じていた。眉根に微かに皺が寄り、唇を強く引き結んでいる。 「カオル?大丈夫?」 その声で薫は弾かれたようにタクミを見た。 目が潤んでいた。 「ごめん」 薫は何度かまばたきし、手の甲で目を擦った。 「ごめん」 「何が「ごめん」なの?」 薫は小包を持ち上げた。 「ごめん。やっぱり送らない」 箱に貼ったステッカーを乱暴にむしり取り、窓口を離れた。 「カオル、送らないの?」 後を追いかけるタクミを引き離そうとするかのように、薫は大股で歩きながらくしゃくしゃのステッカーを小さくちぎり、窓口の側にあったゴミ箱に落とした。 「うん。気が変わった」 「いいの、ほんとに?」 「うん。箱を見たら、ちょうどそれに入りそうなものを急に送りたくなっただけだよ」 「衝動買い?」 「うん。一種のね」 そう答える薫の目はもう潤んでいなかった。 # by kaoru_oishi | 2004-08-27 21:07 | 第1部第7章 | Trackback | Comments(0) 2004年 09月 10日
「やったぜ。ライブするとこ確保した!」 午後遅く戻って来たマサルと藤崎はメンバーに朗報を告げた。 「どこどこ?」 「The Burning Zone。カツユキ、覚えてないか?前、出かけた時、二番目に行ったとこ」 スウェットにガウンという、朝と同じ格好のカツユキはぼんやりした表情で首を振った。 「いや。俺、ヘロヘロ状態だったから、「飲むとこ」だったとしか覚えてない」 「そっか。で、前に行った時、オレ、オーナーと話したんだ。オレがバンドやってるって言ったら、オーナーは「じゃ、今度演奏して見せろ」って言ってた。だから、今日行って話を具体的にまとめたってわけ」 「ひゃっほーっ!すげえじゃん、マサル。さすが「ニュームーン」代表取締役」 ケンゴがマサルの肩をどやしつけた。 藤崎は眉を少し上げて、横目でマサルを見た。 「簡単に言うとそうなるわね。だけど、実際はもっと大変だったのよ。何しろマサルがクラブの名前も場所もぜんっぜん覚えてないから、前のホテルを中心にぐるぐる歩き回ったのよねー」 マサルは小声で「面目ない」とつぶやいた。 「他のところにも行ってみた?」 藤崎から渡された店のパンフレットを見ながらタクミが聞いた。 「一応ね。だけど、この辺のクラブやパブって、地元の結束が堅いから、なかなか簡単によそ者を入れてくれないって感触があったの。それから、雰囲気が合わないところはこちらでパスしたわ」 「The Burning Zoneってどんな感じのクラブ?」 「若向けで、適度におしゃれかしら。アンタたちが演奏してても、お客として行っても違和感ない雰囲気よ」 「で、演奏はいつするの?」 「明日」 「あしたーっ?」 藤崎とマサルを除く全員が大声をあげた。 「そう。普通は週末の夜だけライブをしているらしいけど、頼み込んで明日特別に入れてもらったの。明日はレディース・デーでいつもより女性の客が多いから、それを当て込んで男性客も来る仕組みになってるらしいわ。やっぱりいくらなんでもスカスカの入りでライブするわけにはいかないでしょ?」 「でも、少し練習時間がないと」 薫が口をすぼめてつぶやいた。 「林さんのスケジュールもあるから、あまり余裕がないの。だから、今日は晩ご飯の後で下見に行っとくわよ」 「下見の時に飲んでいい?」 カツユキの問いに藤崎は小さくため息をついた。 「ダメ、と言いたいけど、ちょっとならオッケーよ。だけど今晩は絶対にぜったいに夜、出歩かないでね。明日のライブがかかってるんだから」 「わかりやした」 咳き込みながらカツユキは手を上げてみせた。 件のクラブは今のホテルからタクシーで十分ほどのところにあった。黒ずんだ石造りのビルの地下にあり、一階から階段を降りて行くようになっている。 縁に鋲を打ち込んだ頑丈なスティールドアを開けると、中はライトブルーと白に塗られた意外に明るい空間が広がっていた。まだクラブは始まっておらず、クリーナーがカーペットに掃除機をかけている。ショットバースタイルのカウンターが入り口から入って右手にあり、左手にはボックスシートが十席ほどある。残りはダンスフロアで、突き当たりがステージになっていた。 「ステージが高くていいな。これなら、客もそう簡単に上がって来れそうにないぜ」 カツユキが誰に言うでもなくつぶやいた。 「見てっ!あのスピーカー!すっごい大きい。ボーズのであんなに大きいの見たことないよ。きっと特別仕様だね」 タクミがステージの横を指さし大声を出した。壁に高さが三メートルはありそうなスピーカーがはめ込んである。 「ここのオーナーは昔、自分もバンドやってたんですって。だから、金儲けというよりは趣味の延長でクラブをやってるみたい。ほらね、店の飾りも音楽関係ばっかりでしょ?」 藤崎が指さした壁にはエルビス・プレスリーをはじめとするロックやポップの大物たちの写真や記念の品物が飾ってあった。一同はクラブのオーナーを待つ間、壁に飾られたそれらのレコードやポスター、楽器などをながめていた。 ”Oh, Masal! How nice to see you again!” クラブのオーナーは五十ぐらいの熊を思わせる大柄の赤毛、赤ら顔の男で、マサルを見ると大げさに両手を広げ、抱きついた。 マサルは照れて、小さく”Hi”とだけ言った。 男は藤崎には抱きつかなかったものの、音を立てて両頬にキスをした。 ”ニック、コイツらを連れて来たわ” 男は藤崎から離れると、ニュームーンのメンバーをしげしげと眺めた。 藤崎は各自の名前と楽器を紹介し、メンバーは軽く頭を下げた。 ”この子たちが、あのMTVアワードにノミネートされたのか。へえ、可愛いじゃないか。見てるだけでも喜んじゃいそうだな、ウチの客が” 「何だかミス・ユニバースにでもなった気分だよ」 会話が分かるタクミだけが、その言葉に顔を赤らめた。 ”コイツらのギグも聞かなきゃダメよ” ”分かった、分かった。さっきデモテープを聴かせてもらったけど、この子たちの得意分野は?” ”そうね、基本的には何でもできるけど、コイツらの音楽は純ロックってとこかしら” 「ロックンロール」という単語がかろうじて分かったケンゴが「うんうん」と大きくうなずいた。 ”いいねえ。そのノミネートされた曲もやってくれるんだろう?” ”「リトル・ドラマー」?もちろんよ。でも、コイツらはビデオ撮りのために一曲新しいのを演奏することになってて、明日はそれが一番重要なの” ”そうだったね” ニックは肩をすくめた。 メンバーはニックに勧められるままステージに上がった。 「やっぱり、下とずいぶん段差があるな」 マサルがフロアを見下ろして言った。 「下手にノッてダイブなんかしたら、ひとたまりもなさそうだ」 ”君たち、今、何かやってくれない?” ニックがフロアから両手を振った。 ”Now?” ”冗談だ。明日のギグを楽しみにしてるぜ。代わりと言っちゃなんだが、今晩はおごるよ” 「イエーイ!」 藤崎が早口でニックの言ったことを通訳すると、マサルとカツユキはガッツポーズをし、互いの手を打ち合わせた。 薫はステージの上から周囲を見渡した。ステージ脇に大小さまざまなケースがうずたかく積み上げてある。近づいてみると、すべてのケースに「The Burning Zone」と書いたラベルが貼ってあった。普通、クラブで演奏する場合、楽器は基本的にバンドが自前で持ち込むことになっているが、ここにはドラムセットなど一応一通りの楽器は揃っているようだった。もちろんマイクロフォンやアンプもステージ上にセットしてあり、その気になればいつでも演奏できる環境になっていた。 薫は高梨のライブハウスを思った。ここと比べたら格段落ちるが、高梨もニックと同じくらい若手のロッカーをサポートし、採算度外視で彼らの演奏の場所を提供してきたのだった。 ふと顔を上げて、薫は客席から見えないアングルに一本のギターが掛けてあるに気がつき、近寄って見た。 Fender Stratocaster 62's。 エレキギターを操るものにとってギターの中のギターと称される型である。 薫はそっと手を伸ばして、ボディを撫でた。ギターの表面にはうっすらと埃が溜まり、触れた薫の指先を白く汚した。 その暗紅色のマホガニーに部分的に白い塗装をほどこしたギターにはどことなく見覚えがあった。店内の装飾から考えると、誰か有名人のギターであることは間違いなさそうだった。しかし、客側でなく、演奏者側に見えるように掛けてあるのが、薫には何となく不思議に思えた。 (一体、誰のだろう?) 薫は顔を近づけ、ギターに署名か何か書いてないか、じっくり見ようとした。 スティールドアの開く重々しい音がし、振り返ったニックは入り口に立つ男を見ると歓声を上げた。 ”おいっ!!びっくりじゃないか!いつ、エジンバラに戻って来たんだ?” ”今日。BRITsがオレをフランスから引っ張り出したんだ。で、あいつらが出資してる音楽学校を訪問させられることになってる” ニックは男と少し話していたが、藤崎と目が合うと、男に向き直った。 ”そうか。ところで、この子たちはニュームーン、日本から来たバンドだ。そしてこの魅力的なご婦人が彼らのマネージャーだ” ”ふうん” 男はさして興味もないような声を出して、ステージの上のメンバーをチラリと見た。 四十半ばぐらいだろうか、男はグレーのスーツにトレンチコートというごく普通の服装をしていたが、短い茶色の髪に金のハイライトが入り、片耳にはリングが光っていた。 ”彼らは去年MTVの賞にノミネートされたんだ” MTVと聞いて、男はようやく興味を持ったようだった。 ”そう?ええと、ああ、ピエロがドラマーにスティック投げるヤツだろ?” ”Yes, that is.” 男の顔が歪んだ。 ”あの糞ビデオか。あんなのは低予算のびっくりビデオじゃないか。MTVがこいつらに賞をやらなかったのは正しかったな” 「何、あの人、すっごく失礼じゃない」 「なんであんなヤツに僕らのビデオけなされなきゃいけないの?」 藤崎とタクミが同時に毒づいた。 ”ビリー、若い子たちにそんなに冷たくしなくてもいいんじゃないか?” 眉を下げ、両手を広げるニックに男は舌打ちして、短く叫んだ。 ”うるせえ” 薫はステージの上から一部始終を見ていた。 もちろん、言葉は分からなかった。だが、声のトーンから、ニックと男が言い争っているのが分かった。 そして、ニックが男を「ビリー」と呼んだことも。 (まさか) ステージの隅で薫は凍りついたように立ちつくしていた。 最近の姿は見たことがない。だが、二十年前の写真、ビデオのイメージははっきり脳裏に焼きついている。 今、目の前にいる男から二十年の時間を取り去ったらどう見えるか。 身長は高い。いや、薫よりは少し低いのかもしれない。体型は、老けてはいるが、二十年前とほぼ同じだ。全盛期は新曲が出るたび髪型を変え、髪の色を変え、服装を変えていたが、元々の髪の色は確か茶色で、目は青のはずだ。 薫は男を注視した。 目の前の男のシャープなあごと太い鼻梁、肉厚の唇がスライドのようにぴったり過去のイメージに重なった。 (本当に?) 『別に高度なテクニックをマスターしろと言っているわけじゃない。最初は自分の心に残った歌から始めるんだ。新しかろうと、古かろうと、ヒット曲だろうと、マイナーだろうと、何だっていい。とことん聞いて、自分が弾いてみたい歌を探してみろ』 テーブルいっぱいにCDの山を積み上げながら高梨が言った言葉が耳の奥によみがえった。 ”Excuse me.” 薫は恐るおそる男に声をかけていた。 男が薫の方を見た。ガラス玉を思わせるライトブルーの目が無表情に照明を反射している。 ”Excuse me. Ah, Are you Billy McMahon from The Lunatic Lovers?” ”Yeah.” 男はそっけなく返事をした。 薫は目を見開いた。 (信じられない。こんなところで、こんな風にビリーに会えるなんて) 薫は汗で冷たくなった指先をパンツの後ろポケットに入れた。 ”I'm a big fan of The Lunatic Lovers. I like your music very much.” やっとのことで、中学生程度の英語が口をついて出た。 ビリーの目がまた薫をチラリと見た。 ”ありがとう、と言っとくべきだろうな。だけど、TLLはもうないんだ。終わっちまったんだ。で、オレはもうバンドのリードシンガーでもないんだ” ”Hey, Billy.” ”オレは過去と共に生きる気はないぜ。ほっといてくれ” ビリーが踵を返してステージから離れて行く。ニックが何事か言いながらそれを追いかけている。 (待って) 言葉が出てこなかった。 まったく。 言葉が感情の波に押しつぶされていた。 知らせたかった。 彼が、彼らの音楽が自分にとってどれだけの意味を持っているかを。 自分の存在にどれだけの意味を持っているかを。 しかし、知らせるすべがなかった。 薫は絶望的な気分で周囲を見回した。 力なく見上げた視線の先に壁にかかったギターがあった。 薫は歩み寄り、ギターに手を伸ばし、そのネックをつかんだ。 その後の動作は早かった。 薫はステージの隅のアンプから伸びていたシールドを拾いあげると、素早くギターにつないだ。 電源を入れ、ピックを探すのももどかしく、弦に爪を立てる。 そして、引っ掻いた。 少し枯れたような、だが、空間に沁み入る音が漏れ出た。 二人は動きを止め、薫のほうを見た。 薫ではなく、ギターを見ていた。 ”Hey, what the hell are you doing with the guitar!!” ビリーが大声を出した。 聞き違えようのない、TLLのシャウト。ビリー・マクマーンの声。 薫はギターを抱え、ステージの中央に立っていた。 緊張で足ががくがくと小刻みに震えている。しかし、左腕はがっちりとギターのネックを握りしめ、右手は弦にぴたりと爪を当てていた。 ”Don't touch that bloody guitar! That is....” ビリーの指が銃口のように薫に向けられている。 薫は宙を見つめ、目を閉じた。 (高梨さん、やるよ) 薫は大きく深呼吸すると、目を開け、ビリーをしっかり見据えた。 「聴いて」 唇がそう動いた。 # by kaoru_oishi | 2004-09-10 15:20 | 第1部第7章(2) | Trackback | Comments(2) 2004年 08月 27日
薫は宙を見つめ、目を閉じた。 (高梨さん、やるよ) 薫は大きく深呼吸すると、目を開け、ビリーをしっかり見据えた。 「聴いて」 唇がそう動いた。 ギターがどこか哀調を含んだメロディを奏でた。 二小節からなるそのメロディが七回繰り返されると、曲が始まった。 (ここにMidnight Callの歌詞が入ります) ギターを弾きながら薫は歌った。 ニュームーンではコーラス以外は決して歌わない薫が、少し掠れた声でバラードを歌っていた。 ビリーの動きが止まった。 口を開いて何か言っているが、薫の耳には届かない。 ワンコーラス終わり、リードギターのソロになった。 薫の指先が弦を掻きむしり、すすり泣くような高音をギターから絞り出した。 オリジナルでは他の楽器も入るので間奏らしく軽くなっているところを薫は敢えてボリュームを上げ、ギター中心にアレンジした。 「ちくしょう」 カツユキが低く呻いた。寒さをこらえるかのように自分の体を両腕で抱きしめていた。 ストラップで肩から下げていないギターはだんだん角度を変え、薫は左手を上に、右手を下に構え、弾き続けた。 薫がまた歌い出した。 藤崎はマサルの背にもたれて、それを聞いていた。 一人で立っていたら倒れてしまいそうなほど、全身が頼りなくなっていた。 「エクスタティック」 気づかないうちに、言葉が口から出てしまっていた。 これに違いない。ルイス島のロケで薫が見せた表情というのは。 弦を押さえ、弾き掻く薫の指は握力で青白く浮かび上がって見える。しかし、その顔は微かに上気し、赤味さえ帯びている。 睫毛を伏せているが、目は閉じていない。うっすらと開けた目が愛おしそうにギターを見下ろしている。 ギターはなだらかな曲線を描く女体だ。 薫はそれを後ろから抱き、愛撫し、喜悦の声を上げさせているのだ。 藤崎は生まれて初めて人間ではないものに嫉妬した。 ギターは再びイントロのメロディに戻り、七回繰り返すと曲が終わった。 「これで分かったでしょ?僕がどれだけTLLが好きなのか」 薫はそう言うと、ギターのネックを片手で持ち、両手を広げてみせた。もう、拙い英語で会話しようという気はすっかりなくなっていた。 「何でも弾ける。リクエストしてよ。The death planetでも、Extraordinary loveでも、The Navigatorでも、何でもできる。弾いてひいて弾きまくったんだから」 視界の隅にメンバーと藤崎の姿が見えた。 みんな、あぜんとした表情で薫とビリーを見ている。きっと、今、何が起こっているのか分からないに違いない。 ぱらぱらと拍手の音がした。 フロアでビリーとニックが手を叩いていた。 ”スゴイ!ぶったまげたぜ!” ニックは熊のような体を揺すって驚きを表現した。 ”お見事。おまえの演奏はオレが聞いた80年代懐メロバンドの中で一番だ” ビリーは片目をつぶってそう言うと、ニックを振り返った。 ”ちょっとこの子と話したい。だけどシラフじゃダメだ。ニック、酒、持って来てくれないか?” 「ごめん、びっくりした?」 薫の声でメンバーはやっと我に返ったようだった。 「一体、今のは何だったんだよ、カオル!」 ケンゴがつかみかからんばかりの勢いで薫に詰め寄った。 「オレ、お前が気ぃ狂ったのかと思ったぜ。いきなりガイジンのオッサンにつっかかっていったからよぉ。ケンカでもおっぱじまるのかとハラハラもんだったぜぇ」 そのまま、拳を固めると、軽く薫の腹をこづいた。 「もちろん、ケンカになったら加勢するつもりだったけどよ」 薫は手を伸ばして、ケンゴの肩を叩いた。 「オッサンじゃなくて、ルナティック・ラバーズのビリー・マクマーンだよ」 「だから、それは誰だっての?」 「80年代にヒットを出したエジンバラ出身のロックバンド」 藤崎が横から口を挟んだ。 「私がハイティーンの頃はもうピークを過ぎてたけど、それでもすごい人気だったんだから」 藤崎は続けて何か言いたそうだったが、ケンゴがそれをさえぎった。 「で、どうしてお前がそのなんとかいう昔のバンドの曲がバリバリ弾けちゃったりするワケ?お前がそういうの弾くの、オレは初めて見たぜ」 薫はケンゴを見た。タクミもマサルもカツユキも藤崎さえもが同じ表情で薫を見つめていた。 薫は長いため息をついた。 言葉で表しようのない重苦しい感情が喉元まで込み上げてくるのが分かった。もし、それに色があるならば、けばけばしい原色のペンキをいくつもバケツに投げ込み、乱暴にかき混ぜたような、見ている者に苦痛を与える色だった。 薫は小さく首を振り、それを何とか記憶の片隅まで遠ざけた。 「知らないはずだよ」 両手で抱えていたギターをネックを左手に、ボディを右手にして持ちかえた。 「だって、これは僕が事故の後、高梨さんのところでリハビリしてた時に習った曲だから」 そう言うと、アンプラグドでギターを掻き鳴らし始めた。今度はMidnight Callではなく、TLL初期のヒットThe Navigatorだったが、ステージの上の一同は何も分からず、エレキギターから直接聞こえる微かな旋律に、ただ耳を傾けるだけだった。 ”おまえがオレたちのファンだって?信じられないな。二十年前、何歳だった?1歳か?2歳か?おまえの親だろ、無理矢理オレたちの曲をおまえに聞かせてたのは?” 藤崎が通訳として横に座り、薫とビリーはカウンターで酒を飲んだ。他のメンバーは後から合流した林の撮影スタッフとビール片手に明日の打ち合わせをしている。 ステージを降り、カウンターに来るまでに、ニックとビリーが古くからの友人であること、現在フランス在住のビリーがBRITsの親善大使として音楽学校を訪問するためにスコットランドに来たことなどを聞かされた。しかし、薫にとって、そんなことはどうでもよかった。TLLのビリー・マクマーンに会って、その前でMidnight Callをプレイできただけで満足だった。 ”By the way, I haven't asked your name.” 薫は藤崎に促され、自分の名前を言った。 ”My name is Kaoru. Kaoru Oishi.” 薫の名を聞いて、ビリーは少し首をひねった。そして、にこりとした。 ”Oishi.I know that word. It was actually one of the first Japanese words I heard when I went to Japan for the first time. Oishi, means delicious, right?” 藤崎の説明を聞いて、薫はちょっと当惑した。しかし、間違いを正す代わりに、目を細めてうなずいた。 ”Kaol Oishi, the delicious boy. What a heart throb, you are.” ビリーが手を伸ばし、指先でぴたぴたと薫の頬をはじいた。 「あの、美波さん、heart throbって?」 美波は苦笑した。 「「激しい動悸」だけど、アンタの場合は他の意味だと思うわ。「ほれぼれするほどいい男」っていうの」 その言葉に薫はたちまち赤くなった。 頬に触れるのは止めたが、ビリーはなおも薫を食い入るように見つめている。 ”おまえがギターを弾いている時、誰か知ってるヤツみたいに見えた。もちろん、そっくりじゃあないが、おまえはどことなくナイジェル、ナイジェル・モリソンに似てるんだ。クールで、でも繊細なヤツだった。女の子がほっておかなくてな” 「ね、カオル。ナイジェル・モリソンって、あの?」 「そう。TLLのベーシスト。もう十年以上も前に薬物中毒で死んでる」 美波の顔が曇った。 「アンタはそうならないでよ、カオル」 薫は神妙な顔でうなずいた。 ”おまえがオレたちのことをそこまでよく知ってるなら、分かってるだろ?あのギターはナイジェルので、Midnight Callのビデオ撮りの時にそれを弾いたって” そう言われて、薫はびっくりしたようにステージに目を走らせ、その蔭に掛かったギターを見つめた。 「あれが、ナイジェルのギター?Midnight Callの時の?」 ”ああ。もちろん、ヤツはものすごい数のギターを持ってたけどな。あれが一番気に入ってたんだ。オレはそれをヤツが死んだ直後にカミさんから譲り受けた” 「それがどうしてここに?」 ビリーは唇の端を歪めて笑った。 ”オレがフランスに行っちまったんで。アイツが生きてたら、ギターをフランスになんか持って行かせないのは間違いない。アイツは根っからの「スコットランド野郎」だったからな” カウンターの向こうでグラスを磨いていたニックが口を挟んだ。 ”そして、俺があそこに掛けた。客に盗まれるのも、触られるのすら嫌だったからな。そして演奏する連中にナイジェルが本当はどんなヤツだったか知って欲しかった。アイツは「TLLのピンナップボーイ」と呼ばれてたが、実際は俺たちの時代の最高のギタリストだったんだってことを” ドアが開き、数人の客が連れ立って入って来た。 ”話はつきないが、俺は残念ながらこれから客の相手だ” ニックはそう言うと、カウンターを出て行った。 ビリーは客から顔が見えないようにアングルを変え、なおも薫たちに話し続けた。 ”ところで、おまえはTLLの名前の由来を聞いたことがあるか?” 薫は少し考えてから、うなずいた。 「えっと、確か、その時誰かがつき合ってた女の人にちなんだとか」 ビリーは唇の端で笑った。 ”たぶん違うように聞いているだろうけど、これが本当だ。オレたちがバンドを結成した時、オレはダイアナって名の子とつきあってた” ビリーの薄い色の目がステージを眺めていた。ステージではマサルが身ぶり手ぶりをつけながら撮影スタッフと話している。 ”ダイアナはとってもいい子だったが、すごい嫉妬深くて、特に生理の時は手がつけられなかった。皮肉なもんさ。ダイアナってのは月の女神なんだが、このダイアナはお月様に左右されてたんだ。で、みんなでバンドの名前を考えてた時にオレがThe Lunatic Loversはどうかって言ったんだ。バンドのみんながオレとダイアナに振り回されてたから。何せ一月に七日は大げんかしてたからな、オレたち” その頃のことを思い出したのか、ビリーはくつくつと声を出して笑った。そして、グラスに残っていたウィスキーを一気にあおった。 ビリーの目が焦点を失い始めているのに薫は気づいていた。美波や薫はほんの相伴程度にしか飲んでいなかったが、ビリーはこのわずかな間にウィスキーのボトルをほとんど一本開けていた。 ”オレたちはただのエジンバラ育ちのガキで、ちょっとだけ音楽の才能があっただけだ。有名になって大成功したのはただ運が良かっただけさ。だが、今のオレを見てみろよ。いろんなところを訪問して、誰だか分からないヤツと握手して、B級カメラマンに追い回されてクズみたいな雑誌に写真を載せられるんだ。これがオレだせ、ルナティック・ラバーズのビリー・マクマーン、それだけだ” 薫は何と言って良いか分からず、ただビリーのろれつの回らなくなった声を聞いていた。 ”ちょっと、アナタ、ビリー・マクマーンでしょ?” 不意にクラブの女性客が会話に割り込んで来た。 ”アタシ、昔、TLLの大ファンだったの!!” 三十ぐらいの女は有無を言わさずビリーの頬にキスをした。 ”ね、ビリー、あなたたちがTLLを結成してから今年で二十五年じゃない。何か記念のコンサートでもするの” ビリーの眉がぴくりと動いた。目が完全に正気を失っていた。 ”オレに何を求めてる?ナイジェルはとっくに死んじまってるし、TLLはもう十年以上活動していない。そして、ビリー・マクマーンはカミさんの尻にしかれて、アイツが海外に行ってる間子供の面倒を見てるんだせ。TLLがステージに戻ってくるだって?冗談じゃない!” ビリーはカウンターを拳で叩き、そのまま突っ伏した。 女は”あら、あら”と言いながら、後ずさり、そのまま人込みに紛れて行った。 薫はビリーの隣で頭を垂れ、しばらく何も言わなかった。だが、おずおずと手を伸ばすと、カウンターに頭をつけたままのビリーの肩に触れた。 「ビリー」 薫はその耳元に声をかけた。 「僕たちは明日の晩、ここでギグをする。僕たちの曲が二曲に新曲がひとつ。でも。もし出来るなら、もう一曲、ここに関係のある曲を演奏したいんだ。あなたが許してくれるなら、さっき僕が歌った、あの、Midnight Callを演りたいのだけど」 ビリーは頭を半分まわし、片目だけで薫を見た。 酒で曇ったビリーの目が一瞬、ライトの光を反射して強く輝いた。 ”好きなのか、あの歌が?” 薫は大きくうなずいた。 ビリーは少し目を細めて笑った。 ”あの歌はな、ちょうどこんな風に、オレとナイジェルがコンサートの後に一杯やってたときに出来たんだ。アイツはその頃、年上の女優に熱を上げてて、彼女の撮影のスケジュールに合わせて生活していた。で、その夜も、撮影が長引いたんで、ナイジェルは待ちぼうけを食らってた” 薫は頭の中で待ちぼうけを食らうナイジェルを想像しようとしたが、うまくいかなかった。代わりに、きっと何かで見たのだろう、花束を抱えた若い女たちにもみくちゃにされるナイジェルの姿が浮かんだ。 ”十分おきにナイジェルは電話をしに出かけ、戻って来てはギターを弾く。それの繰り返しだった。そして、オレはそのようすを詞に書いた。どうだい、実際はそんなにロマンティックじゃないだろ?” 「そんなことない」 藤崎の通訳を聞いてから、薫は首を振った。 ”悪かったな。オレはTLLについて何も言うべきじゃなかったんだ。だが、オレはおまえがTLLに抱いている幻想に耐えられなかった。現実を見て欲しかったんだ。どうしてかって?おまえたちは二十年前のオレたちに似てるからだよ” そう言うと、ビリーは少しよろめきながら高いスツールから降りた。 ” そろそろ行くよ。明日は朝一で「学校訪問」だからな” 薫もスツールから飛び下り、手を差し伸べて藤崎が降りるのを手伝った。 「いろいろ聞かせてくれてありがとう、ビリー」 ”See ya, Delicious boy. Have a bloody good gig tomorrow.” ビリーの両手に顔を挟まれ、意味もわからないまま、薫は笑った。 ”And of course, you are going to play that song.” 薫の髪をぐちゃぐちゃにかき乱し、その額にキスをすると、ビリーはクラブを出て行った。 # by kaoru_oishi | 2004-09-24 12:25 | 第1部第7章(3) | Trackback | Comments(1) < 前のページ次のページ >
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